|ω・)旧日本軍のト - 軍@ふたば保管庫

軍@ふたば保管庫 [戻る]



148727 B


|ω・)旧日本軍のトラックって・・・
     すんごく可愛いとです削除された記事が3件あります.見る

285434 B
|ω・´)乗用車モードにもなるとです!


235071 B
|ω・;)でっかいタイヤで悪路にも超強そうで
    4人も乗れるスペースもあるなんて    もしかするとすぐれた車なのかもです

33446 B
|ω・)デザイン的にも野暮ったさが無くて
    良い物の様な感じがするとでs    

34748 B
(`・ω・´)


>(`・ω・´)
一応やろうとは思ったんだね、すごい近い
けどコレジャナイ感

98622 B
>けどコレジャナイ感
鹵獲したジープの利便性や性能を元に陸軍がトヨタに試作依頼したものなんですが「出来るだけ戦略物資を使用しない事」や「ジープに似せない事」が指定されてたようです森本真佐男技師が出来るだけ合理的に作ろうと設計し始めると何故かジープに似てきたそうで・・・因みに荷台は木製、ライトは写真では2個ですが量産型では1個になる予定だったそうですコッチは5台作られた先行量産型です

ジムニーベースでリメイクする人おらんかな

今作っても売れそうなデザインw

26158 B
パジェロに近いのがあった気がしたけど、違うね


>ジムニーベースでリメイクする人おらんかな

大昔に似た感じのがあった気がする
カトマンズとか言うやつ

240180 B
|ω・)40年代のフォードトラックが
    にゃんだか似てていい感じです    たぶん、現物はもう存在しない    と思うので・・・

146111 B
わさわさ


54075 B
変わり種の百式軌道トラック(百式鉄道牽引車)とか
[朝霞駐屯地に実物展示]

48347 B
パラオの海中には未だに輸送船と共に沈んだトラックが;


162103 B
ニッサン80型自動貨車
すごくカワイイです・・・しかし戦場では不評
なー
なー

>某従軍慰安婦の方がジープと間違えたのってこの中にあるのかな?
クリスマスもジッパーも無いから
なー
なー

>クリスマスもファスナーも戦前からあるよw

荒らし目的でわざとやってるんだろうか
とりあえずdel

これ月産何両(予定)?
数作らないと輸送にの役には立たなさそうだけど・・・

書き込みをした人によって削除されました

三菱PX33とかカッコイイね

82067 B
参考になるか分かりませんけれど、モノの本によりますと
1940年度開始時点(4月1日)で日本軍が保有していた軍用自動車が2万9000台、んでもって年度中に生産されたのが1万6000台、民間から徴用したのが1万8000台、損失が500台で年度の終わり(41年3月31日)に保有していたのが計で6万2500台だったんだそーで以降1941年度には生産が1万2500台、徴用2000台、開戦後の鹵獲車両が1万5000台に対し損失が1万5000台で年度末保有台数が7万7000台、1942年度は生産1万1150台、徴用無し、鹵獲9000台、損失1万6000台で年度末保有数は8万1500台、1943年度は生産はグッと減って7600台、徴用600台、鹵獲9800台、損失は1万9500台で年度末保有数は8万台、最後の1944年度は生産台数は1200台、徴用無し、鹵獲3800台、損失1万5200台で年度末保有数が6万9800台だったんだそうで

94526 B
要は1941年から45年にかけての日本軍の年ごとの自動車保有数自体は、
7〜8万台前後で大きな変動無く推移していたって事だそうなんですけど一方で1941年の開戦時に51個師団だった陸軍の歩兵師団は44年1月まででも20個師団が増設されてますので単純に軍全体の車両数が全期間でほぼ同じとすれば師団当たりの割り当て数は戦争後半程目減りしていく勘定になるみたいですなこの期間中日本国内で製造されたトラック数は軍民合わせて約10万数千台、日本軍が海外(満州、朝鮮、南方、ビルマ、太平洋等)で使用したトラック総数が7万3000台になるんだそうなんですが、コレを動員された兵員数との割合でみると499人に対して1台になるんだとかで、(因みに米軍では12〜13人に1台)日本の兵隊さんがトラック含む自動車の恩恵に与るのは中々大変そうってのが感じられる数字ではありますねコレ

モータリゼーションが発達してた国々とそれが無かった国との戦争でしたからねぇ
第一段階作戦時も輸送車両不足は「上陸してから鹵獲した車輌を使えば良い」とか
結構行き当たりばったりな所もあったようで・・・
まあ第一段階作戦時は日本軍も物量作戦を行ってましたから大事には成らなかったようですが

数の話になると(特に世界一の米国との比較になると)一気にしんみりしちゃうのはいつもの事なのにマゾなんですかね?
たまには英国とかドイツと比較したらどうなんでしょうか?

信頼性の点でもアメリカ製トラックが一番好まれたというのは良く聞く話ですね

>信頼性の点でもアメリカ製トラックが一番好まれたというのは良く聞く話ですね
そうですね
輸入の時はそうでも無かったようですが大正13年にフォードが、昭和2年にGMの
日本法人が出来てからそれまで国の補助で細々と(昭和6年で国産合計250台・・・)
生産されていた国産車がほぼ淘汰されてしまったようで昭和6年に国が主導した
「商工省標準型式自動車」が作られても治まらず、ようやく海外メーカー産車輌を
ある程度閉め出すような法制度「自動車製造事業法」が出来て漸く国産車輌にも
道が開けた感じだったようです
それでも民間市場ではフォードやシボレーが「壊れない」と人気だったようですが・・・

105864 B
>たまには英国とかドイツと比較したらどうなんでしょうか?
参考までに1935年(95式小型乗用車の採用年度ですな)の世界全体での生産数総計が507万6000台(但しソ連は含まず)内メリケン:394万7000台(77.8%)エゲレス:42万4000台(8.4%)ドイツ:24万7000台(4.9%)カナダ:17万3000台(3.4%)フランス:14万3000台(2.8%)日本:5090台(0.1%)…となるんだそうでまあ、例えばTOYOTAが世界1・2の販売台数を海外の自動車メーカーと争うなんてニュースの流れる昨今とはまさに隔世の感有りですなw

118050 B
因みにメリケンの乗用車に限った生産台数は1940年には370万両程だった
そうなんですが、実はコレが1943年には139両、44年には610両にまで落ち込んでたりするそうで(万も千も抜けてません、念のため)んで要はこの乗用車数百万台に相当する人的物的リソースほぼ全てが兵器生産に振り向けられたんだそうでして実際フォード、GM、クライスラーといったメリケンの自動車メーカーの多くが航空機、戦車、装甲車両と言った一線兵器の大量生産に大きく貢献していくわけですな一方の日本で豊田や日産といった文字通り産まれたばかりの自動車会社が零戦や隼、重爆や戦車の転換生産を引き受けるなんてまず無理だった事を思えば当時の日本から見たアメちゃんはまさに別格の化け物ですよねえ…

25958 B
>一方の日本で豊田や日産といった文字通り産まれたばかりの自動車会社が
>零戦や隼、重爆や戦車の転換生産を引き受けるなんてまず無理確かにGMのFM1やFM2は有名ですね日本だと松下(飛行機)のD3Y1-K明星くらいなんですかねぇまあ生産とは言いがたかったですけど・・・・

1935年のデータありがとうございます
その後はどんな感じでしょうか?
その後の日本の伸び率が見たいのです

>1940年 3700000両 
>1943年 139両
>1944年 610両
>この〜人的物的リソースほぼ全てが兵器生産に振り向けられた
これまたすごいハナシですねぇ
やるときゃやるよ! って米の徹底っぷりが

94441 B
>その後の日本の伸び率が見たいのです
若干飛び飛びになっちゃいますけれど1938年が1万6000台未満、1940年が3万60070台、1945年が2万5049台という数字が残っておるそうでピークとしては開戦直前の1940年の4万台弱が最高で後は他国と同じく他の軍需にリソースを食われて減少しちょるわけですな>信頼性の点でもアメリカ製トラックが一番好まれたというのは良く聞く話ですね元トヨタ自動車販売社長の加藤誠さんが語るところによりますと「昭和10年、11年、12年の頃には『満州』のほうがだいぶ怪しい状態になっていて、いまにも戦争が始まるのではないかという雰囲気でした(略)作ったものを軍に納めて、テストを受けたりしていたんですが、シボレーやフォードのトラックとは性能的にだいぶ差がありました(略)向こう(戦地)にいる兵士は、国産のトラックには本当は乗りたくない、むしろ中古車でもいいからシボレーやフォードに乗りたい、といったぐらいなんですそのくらい軍隊からも嫌われたんです」

147536 B
「私達の手本はシボレーやフォードのトラックですけれど、その部品をスケッチして
模造して作るわけです」「(太平洋戦争が始まってから)われわれはこの戦争はどちらが勝つかという議論をしたわけです(略)内緒の話ですけれど、仮に太平洋をトヨタのトラックが渡って上陸できても、それからシボレーやフォードなどのトラックと、トヨタのトラックが競争しても追いかけられないのではないかという話をしたことがありました」…等々、如何にも自動車さんらしい視点から当時の日米格差を語ってらっしゃるんですがそんなトヨタ自動車も戦後、一時(1949年11月〜3月)は7600万円の赤字を計上、1600人の首切りと残留者の給与一割カットを決定…とまさに潰れる寸前まで追い詰められてたそうなんですがそれを救ったのが朝鮮特需での米軍トラック受注(総計4679台、総計36億円強)だったりするんだそうで仮に当時にタイムスリップして、未来じゃ米国で屈指の自動車メーカーの一つがTOYOTAなんだぜ!なんて言ったとしても、多分誰も信じてくれないよ、ドクッ!

50964 B
日本も頑張ったんでしょうけど(´・ω・`)


77270 B
>1938年が1万6000台未満、1940年が3万60070台、1945年が2万5049台
自分でも見つけました日本の許可会社の自動車生産数です許可会社というのはGM/FORDなどに対抗して国内自動車産業を保護するために設けられた制度で、許可された企業以外は国内での生産が出来なくなりましたただし既に国内にノックダウン工場のあったGM/FORDには特例として一定数の生産継続は認められたようですそれも日米関係の悪化で減っていったようです僅か30年後にはさすがの米国も敗戦国相手に立場が逆転したのは面白いですね

>GM/FORDには特例として一定数の生産継続は認められたようです
昭和11年の「自動車製造事業法」ですね
・750cc以上の自動車を3000台以上生産する場合は許可制
・資本・役員・株主の過半数が日本人か日本法人
等々色々制約付きでフォードとGMに関しても台数制限
所謂フォード社は12360台以下、GM社は9470台以下を
課したようですねー

258050 B
>一方の日本で豊田や日産といった文字通り産まれたばかりの自動車会社が
>零戦や隼、重爆や戦車の転換生産を引き受けるなんてまず無理結果はそうなったんだけど、瓦斯電/日立から引き継いで天風エンジンの生産移管を進めてはいたよ。時期が戦中なんで、物資の不足と工場疎開のドタバタで151基の生産でジ・エンド。何と当初計画ではハ140(DBの倒立12気筒!)の生産まで企図していたそーだけど、いくら何でも(技術的に)そりゃ無茶でしょ、とwソースはココ↓https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/taking_on_the_automotive_business/chapter2/section5/item9_a.html

264580 B
>やるときゃやるよ! って米の徹底っぷりが
ボディスタイルにも顕れてるね。画像は1942年型。

64371 B
で、戦後生産を再開してもこの通り。
グリルを手直しした以外、まるで変ってない。ちなみに、43、44年型というのは無い。戦前は毎年モデルチェンジをしてたフォードが、48年型までこのボディスタイルを続けることになる。つまり戦中は新車開発をしてないってこと。

819289 B
そういやロールス・ロイス マーリンエンジンを
ライセンス生産したのも車屋のパッカードだったなぁ・・・

80151 B
これはトヨタかな?


190188 B
戦後のはなしになっちゃうんですが
ダッジM37を参考に製造した3/4トヨタ(wikiより朝鮮戦争時、トヨタなど日本製トラック数種類が数千台米軍に納入されたのは知られていますよね旧軍納入の流れを組むこのコ↓も5千台ほど米軍に納入されたそうですが>https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/vehicle_lineage/car/id60014823/index.html英文サイト含むネット上でも画像に資料が見つけられません復興期を支え、半島の戦場を走り回った日本製車輌ももっと掘り起し評価されてほしいされてよいと思う

53522 B
これはダットサンか、オオタか…


140371 B
>やるときゃやるよ! って米の徹底っぷり
ただまあ、メリケンの大手自動車会社の軍需転用も最初はそれなりの試行錯誤があったようでチャールズ・リンドバーグ=サンの戦中の回想記にコンソリーデット社のB-24をフォード社で生産する際コンソリ「うちの造った飛行機だからうちのやり方でやるの!餅は餅屋やろ!」フォード「こととら大量生産の老舗やさかい、アテらの流儀でやりま!引っ込んでなはれ!」…と大紛糾した話が載ってたりしますw尤も、WW1後の一時期にはフォードも航空機製造に参画してた時期が有りますので全くの素人分野ってわけでもなかったそうなんですが何だかんだでやり方が軌道に乗ってからは本家コンソリー社に迫る勢いでフォード製B-24が次々生産され最盛期には月産約600機、結局B-24の総生産機数約1万8500機の内、実に8600機がフォード製になるんだそうで

246425 B
また4発重爆の大量生産の傍ら
本業の自動車生産も疎かにしてないというかスレ画のライバル筋(?)に当たるジープのライセンス生産も行っているんですけれど、これまた戦時中生産されたジープ約65万台弱の内、フォードの工場で生産されたのが約28万台、総数の4割以上になるんだとかで更には米軍主力戦車のM4A3用のV8液冷エンジンも提供、その他貨物トラックや牽引車の生産も同時進行してたそうですからもういっそアメちゃんの兵器生産は全部フォードにやらせてたらよかったんじゃないですかね(棒

215403 B
>復興期を支え、半島の戦場を走り回った日本製車輌ももっと掘り起し評価されてほしいされてよいと思う
出荷前の「特需ぢゃ!」画像なら見つかるんだけどねえ…ただ、戦場を走り回ったかどうかはまた別かもしんない。全輪駆動車のモデルは非常に少なかったからね、日本には。しかも普通の商用トラックとしても性能/耐久性共に比較劣位にあった。だからGMCトラックを優先して前線に出し、先ず後方の補充用に日本トラックを充てた可能性は高いと思う。ちうか、俺が兵站担当なら絶対そうする。

97633 B
>もういっそアメちゃんの兵器生産は全部フォードにやらせてたら
>よかったんじゃないですかね(棒GMさんが

491511 B
何か言いたそうですよ


65260 B
やっぱ仲間外れは


89950 B
アカンでしょ、と。


1456020617389.jpgはいすゞに見えるなぁ。

200371 B
そんなアメリカでも出来ないメーカーは出来ないわけで。


>  1456026330229.jpg
車体前部とギアを一体化してしまうあたり割り切っているなあと
その「部品」を一挙に交換する兵站が背景にあるわけで

68810 B
>1456020617389.jpgはいすゞに見えるなぁ。
いすゞってこうでしょ?

229676 B
グリルの絞り具合がトヨタだと思ったんだけどなあ…


25702 B
まさかシボレー1939年型ってことはないと思うんだ。
エンジンがコピーだから互換性が有り、ボディーも各部の寸法比がかなり近い印象だけど

240829 B
やっぱトヨタはフェンダーの曲面が痩せている。
他社のモデル群に比べ、グラマラスな板金プレスを避けているかの様。

137570 B
この時代の板金加工は現在のようにプレス一発でなく職人が一枚一枚叩き出してたのかなあ?
叩くと言っても手ではなく専用のプラニシングハンマーという工作機械だけどだとすると工数の必要な複雑な3次元曲面は避けようとしたはず

62578 B
こちらはイングリッシュホイールという工作機械
バイクのフェンダー加工なんかに向いてます

121789 B
>この時代の板金加工は現在のようにプレス一発でなく職人が一枚一枚叩き出してたのかなあ?
基本的にはそうだったみたいですねこれはまだプレス加工機械や製法自体が不足・未熟だったせいもあるんですけれど戦前・戦中の日本ですと自動車ボディ用の薄鋼板はロール圧延機によるプル・オーバー方式で生産されてたそうなんですが残念ながら当時のこうした日本製薄鋼板の品質そのものが余り良くなく表面傷が多かったり、プレス加工の際にひびが入りやすかったりでどうしても自動車ボディの加工は熟練工の手打ち板金か、専門の関連業者への外注に頼ることが多かったんだそうで

131618 B
戦後もこの薄鋼板の品質の悪さは暫く改善されないままだったんですけれども
1957年ごろからオーストリアで開発された純酸素上吹き転炉(LD転炉)による製鋼法が国内の製鉄業界に導入され始めまして各鉄鋼会社がこの製法で造った鋼をストリップミルで圧延してようやくプレス加工に向いた良質の薄鋼板を生産するようになったんだとかそこで例えば(またトヨタの例になっちゃいますけれど)1958年7月にトヨタは自社の拳母工場北西約2.5キロの約10万坪の土地に本格的なプレス・ライン化を主軸とした新たな流れ作業による乗用車専門工場を建設しまして爾後飛躍的に生産効率を上げて、世界的な自動車メーカーに伸し上がっていく始まりになるわけなんですけれどこの元町工場が建てられた場所ってのが(既に書き込んでくれてる方がおられますけれども)かつてトヨタが川崎航空と合弁で航空機用発動機の生産を目指した、東海飛行機の工場跡地なんだとか…w

|ω・;)キューバの修理工の人が
    1枚のメタルシートからどんなボディパーツでも
    叩きだしてたのをテレビで見たとです・・・
    なにがなくともなんでもできるんだなぁと思った
    とでs・・・

39405 B
ボディの板金プレスはどのメーカーにも鬼門だったようで…
三菱大江工場に大型プレス機が有って、ここを頼りの板金発注が各社の開発話に重複して出てきたリ或いは、モデルチェンジで車格の増す試験車は既存車を十文字に切り帯金で継いで確保して公道を走らせたり(ヲイ)、設備能力が不足で、プレスの後さらに手叩きで成形したりと数々の戦後逸話でも、手叩きに秀でた熟練工が相当居て活躍してたことが察せられるね。

122244 B
「やっぱ舶来モンはええのう」
画像はビュイックのフェートン

>イングリッシュホイールという工作機械
絞りに似てますね

51180 B
「ビンボは辛いのう」
フォードベースの代燃トラック

139358 B
>「やっぱ舶来モンはええのう」
戦前の陸軍大臣サンの公用車は陸軍自動車学校に研究名目で購入させた高級外国車が使用されるのが常だったそうなんですが1939年に陸軍自動車学校長になった武内俊二郎少将はコレを遺憾として「陸軍大臣は国産車に乗るべき」…だと抗議したそうなんですな

136389 B
コレに対して陸軍省から返答が有りまして
「(陸軍)大臣は陛下のお供をしますから、その時万一事故が起きては畏れ多いから、これはやっぱり国産車じゃなくて外国車デスヨ」…との事だったそうでまあ当時の国産車の信頼性を物語るエピソードの一つではあるんですけれど…或はもしかしたら単に陸軍省の担当者が高級外車マニアだっただけじゃな(

Ron Covellという笑顔が素敵で優しそうなオッサンがプラニシングハンマーのイロイロを教えます
https://www.youtube.com/watch?v=sK0oGJEf1Hk

41385 B
手前の乗用車はフォード1936年型
トラック車列の先頭もフォードかな。

116895 B
見て見て、僕のフォードは流線形だお


技能検定って国家検定に自動車板金があって、企業内学校で技能者育成をやってる
これに自動車塗装の職種が加われば、デモカーの出来上がり
とてもじゃないが、量産できるような仕事じゃない

https://www.youtube.com/watch?v=Fu-q46U5Jtk

241707 B
>「(陸軍)大臣は陛下のお供をしますから、その時万一事故が起きては
畏れ多いから、これはやっぱり国産車じゃなくて外国車デスヨ」一応、高級将官用乗用車の開発は陸軍の指示の元、各社行ってたみたいですね特に出色なのは「トヨタ大型B乗用車」でなんと冷暖房完備(!)でラジオ付き燃費は1941年式キャデラックなどの鹵獲外国製高級車と比べて良かったとの事さすが世界のトヨタ

403284 B
>燃費は1941年式キャデラックなどの鹵獲外国製高級車と比べて良かったとの事
それはね、高級車に相応しい大排気量エンジンがトヨタに無かったから。燃費を気にする高級車なんて、当時は誰も求めてないし。>さすが世界のトヨタ…悪い冗談だ。製造事業法以前から自動車産業に取り組んでいた先達の苦闘を冒涜している。

>とてもじゃないが、量産できるような仕事じゃない
うん、上で紹介したアメリカの方の動画だと手で叩いてるのは最初だけでそのあとはプラニシングハンマーっていう空気圧を使ったハンマーを使ってる
1分で250回から1万回叩けるのまであるようで、一部は1940年代からある機械をそのまま使ってる
卿の紹介された日本のビデオの方はちまちま手で叩いてて如何にも効率悪い
おそらく当時の日米工業力と同じ差と思われ(笑)

あごめん2500から1万

機械式に回転力をハンマーの上下運動にする装置をスプリングハンマーと言うそうです
日本では刃物の鍛造にベルトハンマーが古くから使われていました

1156080・・・・・ぷっ

310811 B
じきに曲面成形、つーか鉄そのものがガッツリ疎外されちゃったで御座る。


1738563 Bダットサンと米兵


>1456240356832.jpg
米兵がデカイのか、ダットサンが小さいのか、あるいはこの年代の車はコレくらいが普通なのか…

>この時代の板金加工は現在のようにプレス一発でなく職人が一枚一枚叩き出してたのかなあ?

昔見た戦前の日産のトラック工場(アメリカのグラハム社から設備一式を購入したやつ)の映像だと、セミキャブオーバー式トラックのフェンダーをプレスで整形してましたから、一概に職人技だけでもなかったのではないかと思いますよ。

この日産の工場、立ち乗り式のフォークリフトが走り回っていたり、高速オーバルテストコースがあって、そこをトラックが走ってる画像ありと、個人的に持っていた戦前のイメージを覆してくれました。

>>1156352
繊細な日本車に大男7人箱乗りして遠出するバカに、
直せそうにはとても思えない。
しかも調度良く後ろは海。
この後のダットサン君が心配だ。

>直せそうにはとても思えない。
ボンネットを覗き込んでるヤツはかなりの車オタクだと思う
こいつがあらゆる障害を克服する

>ダットサンと米兵
なんとなく車が米兵に虐められてるようにしか見えない・・・

>米兵がデカイのか、ダットサンが小さいのか

M4やP-47のでかさから察するにですな、資源も燃料も技術もすべてそろっているとしか。

関係ないかもだが、だいぶ前に日本人男性の平均身長はこの時代の米兵の平均身長を超えてたはず

84725 B
>ダットサンが小さいのか、あるいはこの年代の車はコレくらいが普通なのか
「ダットサン」は当時の日本でも「小型自動車」の範疇に入る部類でして1931年に小型自動車「ダット」の製造権を入手した戸畑鋳物社が1933年に自動車部を独立、翌年には「日産自動車」と社名を変更して米国より導入の流れ作業量産ライン(他の方が書かれてるグラハム社の件ですな)を設置した横浜の新工場で1935年頃から量産を始めたのが「ダットサン」なんだとか因みに「ダットサン」が画期的だったのは量産方式だけでなく、「明治の人力車、大正の自転車、昭和のダットサン」をキャッチフレーズに宣伝に人気女優を起用したり、舞台や映画に出演させたりとモダンな販促キャンペーンを大々的に展開したんだそうで

77303 B
おかげで「ダットサン」は当時のモボ&モガさんのハートをがっちりキャッチ、
当初の月産150台は1937/38年には月産800台に伸び小型自動車全体の生産数も、1932年から36年にかけて、普通乗用車の生産数が696台→2千516台程度の伸びだった所小型自動車では114台→6千600台に急上昇しまして当時の円価下落、輸出増進の世相に乗って東南アジアやオーストラリア市場まで席巻したんだとか

106132 B
当時のエゲレス「タイムズ」誌はその社説で
「日本のダットサン」という題名を掲げて「日本では大規模なライトカー製造計画が進行しつつあるが、ライトカーが世界の流行となるのは近き将来の事であり、日本の資本家はこれを目標としたもので、今日、日本の紡績に脅威を感じた英国の業者は、次に日本生産のライトカーの脅威を受ける事になろう」…と予測してたりするんですけれど、ちょうどこの頃、エゲレスの紡績業者が日本を脅威と感じる一因になった「豊田織機」が、小型自動車より更に進んで普通乗用車の国産化に試行錯誤してたわけでその後の戦後含めた自動車産業の歴史の流れも知ってる今の私らが読むと、ある意味先見の明が感じられるような面白さがあるような…w

111161 B
>「ダットサン」は当時の日本でも「小型自動車」の範疇に入る部類でして
もちっと詳しく述べてあげないと分かんないよ。当時の自動車法規で「免許と車庫が不要」なクラスだね。1930年に4スト500cc以下、(ダットサン10型が対応)1933年に750cc以下(同12型)と拡充されたんだとか。外国車勢が席巻する普通サイズの自動車を事業化するのは絶望的、でもこの小型市場になら…つかココにしか生存圏は無い!という経営戦略ですな。実はこの唯一のサンクチュアリを目指すメーカーは結構有ってその生存競争を制したのが日産コンツェルンのダットサンと、三井物産が梃入れしたオオタの2強ということらしー。

11854 B
競合メーカーが結構有ったというコトと、
有望な事業だったというコトとは一致しないのが切ないところ。ダット号を造った「快進社」と前後して、「実用自動車製造」という会社も設立されてる。関西財界がノリノリで出資した新鋭工場なのに、これがちーとも軌道に乗らない。フォード、シボレーが国内で組み立て始めちゃったのがメチャ痛い。その部品下請けなんぞで糊口をしのぎながら、結局両社は合併せざるを得なかった。

98073 B
ダットは石川島、瓦斯電と並ぶ軍用保護トラックを作る御三家メーカーに食い込んだけど、
この事業も伸びてくれなくて生産は数台とも十数台とも…泣かせるねえ。

27080 B
軍用軽四起のコンペには聞いたことも無いメーカーも混じってる。
採用されたのは御存知、くろがね。落選したメーカーでも、小型枠にリメイクして多少の生産に進めたケースがあるようだ。

111212 B
>当時の円価下落、輸出増進の世相に乗って
>東南アジアやオーストラリア市場まで席巻したんだとかわざとボカシてカキコしてるでしょ?日華事変(1937)による円の急落は国産車にとって僥倖だったけど、部品輸入が前提の横浜フォード、大阪シボレーにとっては痛撃そのもの。自動車製造事業法で既得権以上の製造を許されないばかりか、輸入関税が引き上げられた後でもあり、この年を前後して日本の自動車事情がすっかり様変わりする。…んだけど、戦時体制はすぐソコだ。造ることも出来なければ、(徴発で)持つことも出来なくなっちゃう運命なのよ。

くろがね四起は形もだが、「くろがね」が平仮名なとこも
たまらなくかわいい
鐵や黒鉄の方が勇ましくて軍用っぽいけど
メーカーが平仮名だしあだ名だから仕方ないか

91551 B
くろがねって、軍用なのにロードスターのボディスタイル。
よく知らないんだけど、他国で同様の例って有るだろうか?

75362 B
小っさいダットサンが代燃車になっている姿は
可愛いを通り越してもー、いじらしい。萌えてしまう。

23432 B
代燃車の普及も日華事変のあたりかな?
戦時下のバス事業は相当大変だったらしー。当局の指導で経営統合/合理化は基本。で、ドライバーが応召で引き抜かれるのは勿論、車輌も次々徴発されるんで営業路線が維持できなくなってどんどん廃線化しちゃうんだと。

>くろがねって、軍用なのにロードスターのボディスタイル。
ロードスターのボディスタイルってのはいまの基準からしたら
間違いではないけど、当時としては単に遅れてる幌馬車型なんだよ
生産力とコストなどの産物
割り切れてないジープみたいな物

101775 B
戦時下のバスと言えばもー、100%代燃車。
徴発資源が枯渇しきってるのに、ドカ貧軍国はこれを更に絞るんですな。

56406 B
公共性の高いバス事業でこーなんだから、
タクシー事業者は商売道具取り上げられて皆サンさぞやお困りだったんじゃないかと。

やっぱり石油禁輸って死ねって言ってるようなものだから真珠湾くらい攻撃されても仕方なかったんだよ
アメリカは反省すべき

でも実際、アメリカの立場からしたら何か急速に
アジアの小国が爆発的に力を付けて来たから
恐くなってきただけなんじゃなかったのかなぁ?と、
今の中国みたいな感じに軍事力をガンガン増強させながら
周りの弱小国を食らう勢いを感じられたらやっぱり警戒する
ましてや当時の曖昧で弱い国際ルールなんかだったら
石油の輸出禁止なんか簡単に決定されてても当然だったのかな?と

128804 B
スレの流れが殺伐としてきた時は、オニャノコ貼ると良いってばっちゃが言ってた。


375523 B
当時は「ガソリンガール」という職業婦人が存在してたんだそーで。
スタンド間の販売競争は熾烈を極め、給油の間にお茶とお煎餅でもてなしたり、イパーイ入れてくれたお客サンには煙草を1箱贈呈したりとあの手この手。せっかく来店しても、ガソリンガールが居ないと給油しないで帰っちゃうお客も珍しくなかったとか…

93706 B
これが大戦末期ともなると木炭の配給まで不自由となり…


>>スレの流れが殺伐としてきた時は、オニャノコ貼ると良いってばっちゃが言ってた。
ペトリの機動展開みたいだな。

19843 B
機関に万物の霊長を据える、特別剛毅な輸送機器の名は「国策車」。
戦後も十年くらいは駅で客待ちする姿が普通に見られたそーで。

98850 B
透視図


フォードとGMの日本進出で周辺の部品産業は育たなかったのだろうか

16648 B
>フォードとGMの日本進出で周辺の部品産業は育たなかったのだろうか
流石に全部品を輸入してたらコストが掛かり過ぎるし、日本の安い労働コストを利用しないというのも不合理。エンジン、フレームといった基幹以外は徐々に国産化をみたよ。先にもちと触れたけど、大阪の実用自動車製造がシボレーに、横浜では京三製作所がフォードに付属品を納入してたのが割と有名。実は京三も自動車をリリースしてるが、やっぱりダットサン同様の小型枠なんだね。