「叱られなければ、勉 - 数学@ふたば保管庫

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対偶
「叱られなければ、勉強しない」
の対偶が
「勉強したら、叱られる」

果たしてこれは正しいか?削除された記事が1件あります.見る

1806964 B
not A → not B
これをnot A ← not Bとするのは時系列の因果律が乱れているカラス は 黒い黒い は カラスは間違ってます

「勉強したら、叱られる」の待遇から考えてみよう
「勉強した」は「叱られる」よりも過去の話であるので
これの待遇は「叱られない⇒(それより過去において)勉強していない」としなければならない
これは命題「叱られなければ、勉強しない」と異なるのではないかね?
つまりこの「勉強しない」は「叱られなければ」より未来のことを述べている

時制を整理するならば過去形に統一するのが自然だとおもわれるので
「叱られなかったら勉強しなかった」の対偶として
「勉強したのは叱られたときだけだった」となり妥当

日常言語に対偶という形式論理の推論規則を適用する時は、混乱を避けるため、元の命題の曖昧さを排除する必要がある
このお題で曖昧さを排除する仕方としてはいくつかある
時制を限定するのも一つの手だけどちょっと技巧的に過ぎるように思う
元の命題は過去のことも未来のことも含意してるし、その含意はなるべくそのまま残したい
そうなると、ここで必ずしも完全ではないが一番自然ぽいのは、こう読み替える仕方ではあるまいか :

「叱られなければ、勉強する意思がない」
その対偶は
「勉強する意思があるのは、叱られる場合(だけ)」

これは行為の記述を、存在命題に読み替えるやり方
実際に勉強するか否かの問題ではなく勉強する意思があるかの問題になってしまっているから、意味に変化がある点で不満は残るが、意味論的にはそもそもある人の未来の不確定な行為を網羅的に定式化すること自体不可能な筈で、実際に勉強するとかしないとかいう命題には意味のある真理値を割り当てられないから、対偶という推論規則も適用し得ない
だからこれが最善ではないかと思う

>「叱られなければ、勉強する意思がない」
>「勉強する意思があるのは、叱られる場合(だけ)」
自然っぽいかね?これ
むしろちょっと不自然な日本語に見えるのは気のせいかね?

>No.99299
なに言ってっかさっぱりだわ
「叱られなければ、勉強しない」
の対偶は
「勉強しなかったら、叱られる」

>「叱られなければ、勉強しない」
>の対偶は
>「勉強しなかったら、叱られる」
むう…一見待遇でもなんでもないように見えるが…
だが妙に説得力があるぞ…?なぜだ…?

ハッ!これは時制の方を否定した対偶(?)となっているのでは?
つまり「叱られなければ(過去)、勉強しない(未来)」が
「勉強しなかったら(過去)、叱られる(未来)」と時制が対偶風に反転しているッ!?

勉強しなくもないなら、叱られない事もない

11584 B
>No.99238
>「叱られなければ、勉強しない」これは『叱られなければ』は日本語で複数意味を含んでいる、not 『叱られなければ』 at all、as『勉強しない』群論として『叱らない』すべての場合を含み時系列も曖昧、後で叱るのか先に叱るのかも曖昧、定義が甘い。

30931 B
スレ論は
対偶としての論理定義が甘いと思うの。「勉強したら、叱られる」『勉強をした』結果として因果律で叱られる結果になるのか、『叱られるのを期待した』どMくんの是施かもしれない。DQN親の場合、勉強したら叱って、それでも勉強したいから、勉強したくて勉強した結果として叱られる場合もあり得る

>「勉強しなかったら(過去)、叱られる(未来)」と時制が対偶風に反転しているッ!?
それ絡めてのネタです
あんま気にしないで

55168 B
>No.99345
>>「勉強しなかったら(過去)、叱られる(未来)」と時制が対偶風に反転しているッ!?なんだ、ネタだったのか…実は、ミクロの素粒子の世界では因果律が成立してないっぽい厳密に言うと、3次元世界(プラス1)の私たち人間と違って、超ひも理論では 26次元 (14次元とする場合もある)、いずれにせよ、2次元平面人が 3次元体が平面通過する挙動の実態が理解できないであろう、因果律といのも私たちの世界だけのものかもしれない。

> 果たしてこれは正しいか?
そうした対偶のとり方が もし正しいとすれば「トシアキは、母親に叱られなければ、オナニーを止めない」から「トシアキは、オナニーを止めたら、母親に叱られる」というような対偶をとるコトもまた正しいと承認しなくてはならない。しかし《そんな対偶のとり方は不条理だよ》という思いと《原の仮定法からソレの対偶をとる際において為されるべき原仮定法に潜む意味論的構造(=論理形式)の分析が足りないよ》という考えとが即座に相俟って その正しさを承認できない。それゆえに、スレ主が示している対偶のとり方のついても その正しさの承認が否まれる。

因果関係と包含関係と時間推移を混同してるだけなんじゃないかな

>そうした対偶のとり方が もし正しいとすれば「トシアキは、母親に叱られなければ、オナニーを止めない」から「トシアキは、オナニーを止めたら、母親に叱られる」というような対偶をとるコトもまた正しいと承認しなくてはならない。しかし《そんな対偶のとり方は不条理だよ》という思いと《原の仮定法からソレの対偶をとる際において為されるべき原仮定法に潜む意味論的構造(=論理形式)の分析が足りないよ》という考えとが即座に相俟って その正しさを承認できない。それゆえに、スレ主が示している対偶のとり方のついても その正しさの承認が否まれる。
知るかバカ!
そんなことよりオナニーだ!

>「叱られなければ、勉強しない」
>の対偶が
>「勉強したら、叱られる」
ぶっちゃけ氏なら因果的時系列を保存(維持)した上で、
若しくは「勉強する」は「叱る」の従属条件であることを
前提とした上での表現に統一させて、

「叱られなかった」ならば「勉強しない」
の待遇は
「勉強する」ならば「叱られた」
なのですよ。

と言いそう・・・。

肝心のぶっちゃけ氏
どうしてるんですかね
私はバイト探し中

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子供について
 (1) 事前に叱られた∧勉強する
 (2) 事前に叱られた∧勉強しない
 (3) 事前に叱られなかった∧勉強する
 (4) 事前に叱られなかった∧勉強しない
のどれかが必ず成り立つ

で、「叱らなければ勉強しない」という言明は(3)の可能性を排除しているから、
(∵A→B = ¬(A∧¬B)
対偶「勉強するならば事前に叱られた」は全くもって正しい
(∵¬(勉強する∧¬(事前に叱られた))= ¬(3)、故に真

ていうか「事前に」という前置き(つまり因果関係)をとっぱらっても
形式的にはやはり正しい

「叱らなければ勉強しない」という言明は
 (1) 叱られる∧勉強する
 (2) 叱られる∧勉強しない
 (3) 叱られない∧勉強する
 (4) 叱られない∧勉強しない
のうちの可能性(3)を排除している、という具合に
子供の属性の集合と対応づけられる

ただ集合の意味が意味不明になるだけ
(一生叱られ続けたり、一生勉強しない等といったありえないぐらい静的な子供の属性を仮定せねばならない
ただそれだけっていやーそれだけだが

>「事前に」という前置き(つまり因果関係)をとっぱらって
>一生叱られ続けたり、一生勉強しない等といったありえないぐらい静的な子供の属性を仮定
つまりその場合の「叱らなければ勉強しない」という言明は
『「生まれてから死ぬまで全く叱られないヤツ」ならば
「生まれてから死ぬまで全く勉強しない」』
(なげーなw)を意味するのかね?

No.79385のレスはいつも無駄に長い
頭が良い振りをしたがる馬鹿の典型

そうだとするとこの場合のスレ文にある対偶(?)「勉強したら、叱られる」という言明は
同じく上記の対偶をとった以下の言明
『「生まれてから死ぬまでの間に一回くらいは勉強することもあろう普通の人間」ならば
「生まれてから死ぬまでの間に一回くらいは叱られることもあろう普通の人間」である』
(なげーよw)に相当すると思われるが・・・

つまりこれは・・・
「人生は長い!勉強することもあろうし、叱られることもあろう!だが逞しく逝きたまへ」
という教訓を意味していたといふことかッ!?

>ぶっちゃけ氏なら〜
>「叱られなかった」ならば「勉強しない」
>の待遇は
>「勉強する」ならば「叱られた」
>なのですよ。
>と言いそう・・・。
本物のぶっちゃけなら対偶を待遇と間違えないだろう

ぶっちゃけは引退したのか。

統語解釈と形式命題論理の混同のネタだね。
懐かしい。

>ぶっちゃけは引退したのか。
比較的最近ではmixiに 1=0.999... の証明やってた
興味あるんだったら id:14882521 でぐぐれ

「叱られなければ、勉強しない」
の対偶が
「勉強したら、叱られる」

果たしてこれは正しいか?
命題かどうかの問題では?

272230 B
>No. 99358
の続き(1)では、他のどんな仮定法を原仮定の対偶としてとるのが正しいか。(叱られてしまってるでない ならば 勉強しているでない)が原の仮定法に潜在する論理形式だから(勉強している ならば 叱られてしまってる)がソレの対偶となる論理形式だ――という事を 日本語の運用に慣れている者は いともたやすく直観する。よって、後者の対偶的論理形式を えげつなくない形に変えた仮定法「勉強しているのなら、叱られてしまってた」を原仮定法の対偶としてとるのが正しい。〈〈このとり方の正しさ〉を承認する手法〉が付け添えた画像に呈示されている。

>No. 99358
の続き(2)

だがしかし、画像に呈示されている〈手法〉は《〈とり方の形式的な正しさ〉を承認する》に逗まって、
《〈とり方の内容的な正しさ〉を承認する》にまでは至らない。なぜかといえば、
《事例の仮定法が表わすタイプの事象の生起は たとえ蓋然性を有つにしても偶然的であるにすぎない》
という事に由って、こうした内容を有つ仮定法の対偶のとり方には〈ソレへの反例が見い出せる可能性〉
いわゆる〈反証可能性〉が有るから。
例えば、つぎのような〈対偶のとり方(⊆直接推理)の事例〉のように:

  ∀κ[家族κのメンバーは、皆の姓が同一でないなら、κとしての一体感を有ち得ていない。]
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
∴ ∀κ[家族κのメンバーは、κとしての一体感を有ち得ているのなら、皆の姓が同一である。]

頑張ったね。

無駄だけどね

連投・負荷増大 del

それは符号的で量的ではないので他の要素が無いのしても一般人間社会に当てはめようとするのは危険だと思う。