帝国陸軍戦闘機スレ大 - 軍@ふたば保管庫

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帝国陸軍戦闘機スレ

大戦末期には旧式化していたが、それでも一式戦隼は、傑作機だと思う。
隠れたB29キラー屠龍、大きな頭のインターセプター鍾馗、スタイリッシュな飛燕などなど、役者も粒ぞろいだと思う。

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ちなみに自分は、陸軍戦闘機の中でも、1式戦隼U型乙が好きです。


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 戦時中はプロパガンタ映画や戦時歌謡などに取り上げられ、陸軍広報も積極的に公開するなど有名だったようですが、今はやっぱり海軍の零戦の方が広く知られてる割にはマイナーな感じがする隼、再び脚光を浴びる日は来るのでしょうか。
 零戦と隼、ドッグファイトが得意な軽戦、遠大な航続距離と共通点も多いですが、どこが似ていてどこが違うのか、ちょっといまいちイメージがつかめない。

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一式戦は私も好きですね
特に1型と2型多少判官贔屓になるんですけどビルマの64戦隊は1944年後半以降も現地の地形・気候に熟知した上で休養やそこそこ補給も充足していまして終戦間近でも米英軍と互角以上の戦闘を行えたようですね

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松本零士せンせいの戦場漫画シリーズで
初めて見たときは「隼とも飛燕とも疾風とも違うこのカッチョイイ戦闘機は何?!」と子供心にドキドキした思い出が個人的にはやっぱり水滴風防型のが好みですw

地味だけど 鍾馗 は凄い可能性を秘めてた気がする。

二式単戦を早い段階で積極的に量産すれば良かったのに

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>戦場まんがシリーズ
ビックコミック連載のころのやつの陸軍機作品はいいよね「成層圏戦闘機」とか「パイロットハンター」とか「メコンの蜉蝣」とか

>戦時中はプロパガンタ映画や戦時歌謡などに取り上げられ、
昔、ゼロ戦のプラモつくってテーブルに置いて
ブンドド空想してたら、大正生まれのうちのバーチャンが
「もうすぐ晩御飯だからそのハヤブサの模型をテーブルからどけなさい」
っつて怒られた思い出

進出先に設定した急ごしらえの小さい飛行場でもじゅうぶん運用可って想定に縛られ過ぎたな
爆撃機のペイロードで顕著だが戦闘機も

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>ビックコミック連載のころのやつの陸軍機作品はいいよね
「HARDMETAL」の1巻とかしょっぱなの話の主役機体が複戦&5式戦、その他の話で3式戦に4式戦、おまけにキ83まで出てくる陸軍戦闘機マシマシの巻ですからスレ的には特にピッタリかもですなw>二式単戦を早い段階で積極的に量産すれば良かったのに1942年4月に日本陸軍省軍務局軍事課長に就任した西浦進さんと言う方の回想録によりますと、当時上司に当たる東條英機陸軍大臣(首相兼任)に直々に注意されたのが「もうビルマで航空の消耗戦が起こっている。これをひとつ、まずいことにならないよう注意しろ」…という事だったんだとか

>「隼とも飛燕とも疾風とも違うこのカッチョイイ戦闘機は何?!」

五式戦、登場が遅かったのが惜しまれる。

>ビルマの64戦隊
多くのエースが登場したビルマ航空戦ですね。同地では50戦隊も戦争後期まで健闘したそうです。中国戦線でも44年頃までは健闘していたようですね。

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西村氏によると
 「戦闘機の生産が追い付かない、もう4月から追いつかないのです。古い戦闘機は割に作れるのです、97戦というのは。あの当時始まりました、例の隼戦闘機という当時としては一番陸軍としては新式ですが、これの生産が非常に遅れているわけです。なかなか出てこない。それからもう一つは、飛行機の操縦者の種が、だんだんと切れていく、消耗がひどいものですから」「戦闘機というのは戦争中もどんどん進歩するわけですね(略)引き出しの中に、新しい設計をいくつ持っているかということが勝負になるわけです」

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「ところが、一式戦はもう戦の初めに使って、例の加藤隼戦隊なんて
いうのは開戦当時の花形ですが、これは間もなく駄目になった。しかも、この飛行機そのものもなかなか出てこない。それから二式単戦と言うのは、これは滑走距離が長くて非常に使いにくい飛行機なのです。これもあんまりよくない。二式複戦は(略)夜間戦闘機です。頼みにした三式戦と言うのが水冷戦闘機(略)日本で他にやったことがないものですから、発動機の調整が非常に難しい」

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「機体はいっぱいで来ているのです。ところがみな首がないのです。
発動機の方が間に合わない。それから戦地に持って行っても調整がなかなか出来ない。それで頼むのは四式戦になるわけです」「ところが四式戦は―当時はまだ四式戦と言わないのですが(略)―それが5月、太田の中島飛行機で木型模型が出来ているといって、これで今から最大限やって(昭和)19年の2月に初めて実用機が出来る」…という状況だったんだそうでして、開戦から5ヶ月ぐらいで既に一杯いっぱいというか、まず既存の旧機体を更新するのが最優先だったみたいですんで、仮に早期に2式単戦に重点を移しても、運用上の種々の問題を解決して大々的に投入されるのは結局4式戦と同時期ぐらいになっちゃったんじゃないでしょかね…?

>「もうすぐ晩御飯だからそのハヤブサの模型をテーブルからどけなさい」
自分の少年時代のおかんとのやり取りを思い出した。
おかん「マンガばかり見てないで勉強しなさい。」
おいら「マンガじゃねーよ。アニメだよ!」
おかん「またロボットの模型を作ってるの?」
おいら「ロボットじゃねーよ。モビルスーツだよ!」
(作品によってはコンバットアーマー、アーマードトルーパー、ヘヴィーメタルなどになる。)
おかん「またファミコンばかりやって、いつ勉強するの?」
おいら「ファミコンじゃねーよ、メガドライブだよ!」
おかん、すまんかった・・・。

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ただ、44年にフィリピンに進出した、隼戦闘隊は苦戦したようです。特に、襲撃機隊から戦闘機隊に転科のうえ満州からフィリピンに進出した30戦隊と31戦隊。
戦争初期は97軽爆を駆りビルマ航空撃滅線に活躍した31戦隊ですが、44年7月にフィリピン進出後、9月にネグロス島で米海軍航空隊のF6Fと航空戦、特に9月13日には奇襲を受けた形になり、戦隊総勢40機中、3人の中隊長をはじめ15人のパイロットが未帰還と壊滅的打撃を受けました。 9月13日、叔父の戦没日までもうすぐです。

性能的には隼も零戦も同じくらいに思うが、生産数は零戦の方が2倍も多い。
そして零戦の大半が地上基地で使われており、南方に展開した陸軍も制空権の確保を
海軍の零戦に依存するケースが多かった。
それなら隼の方が生産性も高いし、中島の方が三菱よりも生産能力が高いのだから
(零戦も中島の工場の方が生産機数が多かった)隼の方を大量生産すればよかった
のではないかと思うが、隼は零戦よりも武装が貧弱なのが評価を下げたのだろうか?
隼に洋上飛行用の機材を装備すれば南方全域での運用にも問題はなかったと思うが。

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個人的にはひい爺様がこの四式戦闘機の整備士だったのもあって
この機体には一番愛着あるなー

>航空の消耗戦が
ニューギニア戦線は劣悪な環境もそうだけどオーバーホールできる設備がラバウルにしかないからどんどん送り込まれては戦闘消耗と機材消耗で使い物にならなくなったって
資材豊富な米軍とちがって品質管理でも敗北してたんだよな

>二式単戦と言うのは、これは滑走距離が長くて非常に使いにくい飛行機
二式単戦に乗って戦った石川貫之氏は空爆長時代技術者に
F-104とどっちが乗りにくいですか?
と問われ
滑走路の長さですよ。二式単戦も滑走路長ければ安全に降りられます
と言った
当時、戦闘機の滑走路は600m、爆撃機は1200mを基準としていた

零戦は隼に比べて若干カタログデータが良かった
同じエンジンを使いながら差が出たので軍側としては当然零戦を欲しがるわけですが
実は兵器としては隼のほうが良くできていて生産性や防弾といった部分があらかじめ考慮されていました
それは疾風にも受け継がれており事実上の後続機と言えたので隼の生産数が零戦より少ないからといって
兵器として劣っていたかと言うと一概にそうとも言えないのです

それと日本は滑走路の設営能力に不足があったので長くて平坦な滑走路を必要とする
重戦は扱いにくいと言われたのです
この傾向は急速に南方に戦線が拡大した初期の戦いでは顕著でベテランが二式単戦を避けたのも
安心して離着陸できる滑走路を早く建設できなかったことが一因になっているのです

>地味だけど 鍾馗 は凄い可能性を秘めてた気がする。

機体が小さくて発展性がなかったのも問題だったんだと思う
2式単戦の発展型が4式戦だとかってに思ってる

>2式単戦の発展型が4式戦だとかってに思ってる
だいたい合ってる
3式、4式は平凡でカモ
と連合軍に言われたのは零銭、隼のような旧式機は意外な旋回性能があって
手練れが乗ると落とせないから

>と連合軍に言われたのは零銭、隼のような旧式機は意外な旋回性能があって
>手練れが乗ると落とせないから
これって戦争初期に日本側がP-40よりP-36を手強いとしてたのと同じだなあと思う

> No.1132649
映画のスチールでしょうか?藤田治っぽいね

隼はモスキートだろうとムスタングだろうと
手当たり次第落としているものね

世傑でだったか、モスキートが隼に落とされた話で
なんで隼ごときに・・・って記述がある

昭和40年代までの空自飛行隊マークは
陸軍の意匠がそのまま引き続いた感じがいいよね

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>映画のスチールでしょうか?藤田治っぽいね
多分そうだと思います。加藤隼戦闘隊の1シーンでしょう。「藤田進」ですよね。 戦時歌謡や軍歌に唄われたのは、隼だけなのでしょうか。

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 話は変わりますが、陸軍戦闘機といえば、海軍にはなかった、飛行戦隊の「部隊マーク」があります。
 爆撃・偵察戦隊も含め各戦隊、いろいろ意匠を凝らしたマーキングが私は好きです。 画像は飛行31戦隊の部隊マーク。

>世傑でだったか、モスキートが隼に落とされた話で
>なんで隼ごときに・・・って記述がある
英国狂いの岡部いさくだからね。仕方ないね。

個人的に隼や鍾馗なんかのアンテナ支柱の位置にモヤモヤしてしまう…

英国狂いか・・おやどこかで聞いたような・・

1096062 B> 爆撃・偵察戦隊も含め各戦隊、いろいろ意匠を凝らしたマーキングが私は好きです。
プラモ作っていて楽しかったのは陸軍機だった

>多分そうだと思います。加藤隼戦闘隊の1シーンでしょう。
単独で滑走路爆撃に来たハドソン(おぼろ)を、帰還したての部隊長殿が発見、照準するシーンかと
この映画(おそらく)唯一の表現では、AOAがマイナスの時に開けたキャノピーがガラガラバタンと閉まっちゃうカット
この映画以外では見た事がなく、ロックがないから当然とは言え新鮮に映った
コックピットアップ撮影用の機体も実物にしか見えない素晴らしい出来だったし、現代映画並にジンバル(のようなもの)に載せて動かしていて凄い出来

>プラモ作っていて楽しかったのは陸軍機だった

....振武隊、特攻隊か。

特攻隊も海軍の神風特攻隊の方が有名なのかな。

昔は、B-29を始めて撃墜したのは隼だと言う説が流布されていた記憶がある。

64戦隊の1944年4月26日の対B29空戦が話ネタで大きくなった結果ですね

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>昔は、B-29を始めて撃墜したのは隼だと言う説が流布されていた記憶がある。
実際は屠龍で、場所は満州だったらしいですね。本土空襲での初撃墜は4戦隊(屠龍)が44年8月でしたっけ?満州やB29キラー樫出勇氏が活躍した西日本は、早めに空襲を察知して探照灯部隊や高射砲隊と連携し、かなりの戦果をあげたと聞きます。一方、244戦隊をはじめ首都防空は、地理上の大きな弱点のため思うように迎撃できなかったとか。エース小林照彦戦隊長をして「東京の空、敗れたり」と戦記に書かれてました。

>>プラモ作っていて楽しかったのは陸軍機だった
>....振武隊、特攻隊か。
飛び立ったら最後
もう迷彩も関係ないから派手に自由にマーキングしていいってのも悲しいよな

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ttp://www.warbirds.jp/truth/ace.html
よく紹介されるサイトですが、やはり元陸軍戦闘機パイロットの体験談は参考になります。ひょっとしたら、上坊良太郎氏かな。あと光人社刊「陸軍戦闘機隊」、大好きな本です。

陸軍海軍、海と陸で戦闘機の要求性能の違いは有るだろうが
何とか共同で出来るところは合理化して欲しかった

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>モスキートが隼に落とされた話
飛行64戦隊の池田昌弘という軍曹さんが、1944年に「モスキート」と初遭遇した時の様子を手記に書き残されてるんですがこれがなかなか興味深い内容でして、一部引用させて頂きますと「ある日の午前、ピストで笑い興じていたとき、一人が突然叫んだ。『おい、静かに。へんな音だぞ』ピストの全員はピタリと話をやめて耳を澄ます。次第に高まってくる爆音。キーンといやに甲高い音。それは、確かに日本軍の発動機ではない。『回せッ!』と叫びつつ、愛機のもとに一斉にとんで行く」

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「2000メートルぐらい前方を、一機の双発機が超低空で旋回している。
いやに細長い胴体。ボーファイターよりうんとスマートだ。水冷らしいとんがったエンジン。モスキート爆撃機だ」「ビルマ着任以来、いろいろと噂は聞いていたものの、初めて遭遇した飛行機であった。是非とも、我が手で叩き落としてやろう!」

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「ところが既に先客があった。真っ先に離陸した池沢軍曹機が、
旋回するモスキートの斜め後ろに潜り込んで、第一撃を掛けようとしている。この間に、隼は、敵機の周囲に次々と集まってきた」「敵機は急激な垂直旋回で、池沢機の攻撃をするりとかわした。北方へ機首を向けて機を水平に戻すと、駿馬のように疾駆を始めた。群がる隼の間を全速で突き抜ける。」

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「逃がすものか。レバー全開。最大回転数2800。私は友機と共に
真一文字にモスキートを追った。椰子の梢が翼下で後ろへ後ろへなびいていく」「残念ながら、一式戦はじりじりと引き離される。次第に姿を小さくしていくモスキートに『畜生!』と半ば羨望の混じった罵言を投げつける他はなかった」「とにかく、まのあたりその高速を見せつけられては、ただ脱帽するだけであった」

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…とまあ、初めて目にした「モスキート」の韋駄天ぶりは池田氏に
鮮烈な印象を残したようなんですが、実はこの時、64戦隊の他の各機が追跡を諦めて引き返す中、ただ一機追跡を続けていた機が有りまして再び池田氏の手記から引きますと「池沢軍曹だけが、なかなか帰ってこなかった。彼は第一撃に失敗して口惜しさに駆られて、ひとりモスキートを追い続けた。どうしても落とすのだ――その執念が、やがて報われた。30分、40分。敵機の姿は殆ど見失われようとしていた。」

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「(敵機は)巡航速度に落として、ほっとしながら高度を上げだした(略)
(池沢機は)依然低空をはう。そうして敵機の尾翼下に隠れて、じりじり忍び寄った。必中を期して50メートルに接近。エンジンを狙って、発射ボタンを押す。1連射しただけで、敵機は簡単に火を噴いた。そしてアラカン山麓に激突して火柱を立てたのであった。」…そうでして、まさに池沢軍曹さんの執念勝ち、と言った形なんですけれどwある意味これだけ長時間の追撃戦も、「隼」の航続性能あってこそのものだったのかもですな

>陸軍海軍、海と陸で戦闘機の要求性能の違いは有るだろうが
>何とか共同で出来るところは合理化して欲しかった
縄張り争いもあるからそうは簡単にいかんよ
海軍が隼の12.7mmを馬鹿にすれば陸軍が零式の20mmを馬鹿にするといった感じだし
米軍の戦車を撃破する強力な大砲は海軍が持っているけれど陸軍としてはそれを貰う訳にはいかんと

>125.193.*(mesh.ad.jp)様。
いつも詳細な解説有難うございます。

モスキートvs隼の話は、黒江保彦氏の手記にも書かれていました。撃墜にかなり苦労したようです。

画像を省くなりすれば2レスですむのではないかな?

黒江保彦の撃墜スコアはガチ。
自伝も内容が素晴らしい。坂井三郎とは比べ物にならない。

>2レスですむのではないかな?
人それぞれだろうね

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>坂井三郎とは比べ物にならない。
坂井三郎と陸軍で比べるならこっちだと思うありゃノンフィクションじゃない

>何とか共同で出来るところは合理化して欲しかった
エンジンは陸海同じもの使ってたりするし、航空爆弾は共通化してた記憶。
飛龍や百式司偵は、実質海軍でも運用されたんじゃなかったっけ?

>No.1133041
九七式司偵の装備を海軍向けに改修、採用された
九八式陸偵もあります。

海軍でも疾風2機貰ってテストしてたらしいけど紫電の代わりに疾風生産とか駄目なんだろうか

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>>坂井三郎とは比べ物にならない。
>坂井三郎と陸軍で比べるならこっちだと思う>ありゃノンフィクションじゃない坂井氏と同じ、他人の戦果や聞いた話をさもや自分の戦果にしてしまってという意味ではこっちの方もなかなか。「纏めた自分に責任がある」って渡辺洋二氏は言ってたし内藤氏は引くに引けなくなった状況になったともいえるけど。

>人それぞれだろうね
ほかの人のレスを押し流してしまうことに躊躇を感じていないあたり自己顕示がつよいのだろうね
画像の横だけでなく下にも文章をレイアウトすれば少なくとも3レスに収まるし

レスを押し流すって、そこまで配慮が必要なのかと

mesh氏の話は好きだがレスが多すぎるとは思う
一つにまとめたほうがいいのではないか

内容の無いクソ長い長文だったらぶち切れだけど
別に中身が有るまとまった内容だし別に問題ないわ

いくらなんでも神経質すぎるんじゃね

長いと言っても数レスだし、内容がないわけではないし、
せいぜい6レスが3レスに凝縮できるとかその程度でしょ

IP見ればわかるけど
IP:123.217.*(ocn.ne.jp)はmesh氏に対して
全く反論できずに「米軍賛美だムキー」と騒いでる有名なアホ

難癖つけてるIP:123.217.*(ocn.ne.jp) の駄レスをなくせば
ほらもう2レス短くなったぞw

米国賛美など一回も言ったことないぞ?
誰かと間違えているのではないか
彼への批判は彼が返答するのが普通であって取り巻きが代返する状況が異様なんだよ

>長いと言っても数レスだし、内容がないわけではないし、
>せいぜい6レスが3レスに凝縮できるとかその程度でしょ
>
>IP見ればわかるけど
>IP:123.217.*(ocn.ne.jp)はmesh氏に対して
>全く反論できずに「米軍賛美だムキー」と騒いでる有名なアホ
>
>難癖つけてるIP:123.217.*(ocn.ne.jp) の駄レスをなくせば
>ほらもう2レス短くなったぞw

米国賛美と否定してるのはクソnttpcでしょ
mesh氏の話は好きだが現状迷惑と感じてる人もいるわけで
それについて本人から回答を得たいという気持ちはわかる

日本側の苦しかった状況を、当時の証言資料から書いてるんだから、別に米軍賛美でもないだろう。
確かに、米側はこうだったのに日本はそれが出来なかった、みたいな書き方が多いのも事実だが。
そこは色々調べれば、米軍もP40の初期故障でなかなか活動できなかったフライングタイガースの話や、成功した機体の裏側で死屍累々の試作失敗機群とか色々あるからね。
最終的には「失敗が許される範囲=国力」での当時の日米の格差が見せつけられるが・・・・・。
それでも、疑問や不満に思うなら、反証的な書き込みをすればいいだけじゃないかな。
こういう掲示板はそういう場でもあるわけだし。

それはさておき、モスキートしかり、B24しかり、ビルマ方面の隼はその性能と装備を考えると世界空戦史上でも破格の活躍をしている気がする。

あと、屠龍の37ミリ対戦車砲(機関砲とは言い難いほぼ単発)でB29に命中弾だしてる事例とか、非武装非装甲の飛燕でB29に体当たり生還とか、百式司偵による沖縄戦時の上空偵察行とか、当時の持てる装備を最大限に練度でカバーして奮戦してた当時の方々には本当に脱帽だね。

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私の書き込みが発端でスレ内容がズレちゃってて申し訳ないですorz
色々な御意見、有り難く受け取りましたので皆さまここら辺で御容赦の程を…>ビルマ方面の隼はその性能と装備を考えると世界空戦史上でも破格の活躍をしている気がする。64戦隊の整備隊長だった上田厚士大尉さんが、当時を回想した手記が残ってるんですけれどまず第一に「航空作戦運用の背景ですが、地上作戦協力の局面はごく少なく対航空作戦に終始しえた事」を挙げて「勿論、アキャブでは50キロ爆弾で地上部隊を攻撃したり(略)インド洋で艦船攻撃を実施した(略)が地上軍の指揮を受けて細かい直協作戦をしたことはまずありません」…と述べておりまして要は戦闘機体本来の任務たる空中戦闘に専念でき、副次的任務で消耗することが少なかったのが幸いしたそうなんですな

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次に「航空作戦の組織力」という面を挙げられてるんですが、上田氏によると比較的静穏だったビルマでは
1942年4月という早い時期に連合軍勢力の掃討が終わって、以後安定した状況下で基地整備が進み最終的には日本側が掌握していた飛行場数は117に上り、必要な場所には支援部隊が展開を終えて機数的には少数な航空部隊でも、ビルマ全土を移動しながらの作戦を支える基盤がしっかりできていた事が大きかったんだそうでして、この辺が航空基地や周辺支援施設の不備で地上で多数機を失った南東方面との差異だったんですなまたビルマの地域的特性で、乾季と雨季が明確であって、毎年6月ごろには敵味方とも戦闘中止になる状況でこの間に自らの戦力回復に専念できた事が後の粘り強い航空戦を支えた、とも述べておられますビルマの民衆も非常に親日的で、日本軍の作戦遂行上大きな利点であり、「隼」の各戦隊でも撃墜された空中勤務者の方々がしばしばジモティの皆さんにお世話になってたりするんですがwこういう理想的な状況下で先に述べた多数の基地に重ねて綿密な情報網を構築することで、連合軍の動向に迅速に対応できたんだそうで

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この点も、反日ゲリラの跳梁で不時着者の救出や対空警戒網の構築さえままならなかった中国やフィリピンと
大きく異なっていたんですね上田氏は1945年1月にメイクテイラで撃墜された「ボーファイター」に搭乗していたあるエゲレス軍戦隊長(中佐)の尋問記録を引用されてるんですが、それによりますと「『当時の(エゲレス軍は)日本軍の飛行機数は約600機と判断していた』ということです。50機の我が飛行部隊を12倍にも見ていたわけになります」…との事で、如何に陸軍航空隊の縦横無尽の活躍ぶりが大きかったかを示す逸話だと思うんですけれどもw実戦である航空機が活躍する為には、カタログスペック上の性能だけでなく、「空地の勤務者が一体となり、微動だにしない団結と必勝の信念(上田氏)」も大事ですけれど、なによりもこういう合理的、かつ充実した支援体制の構築こそが肝要だったのかも知れませんですな

>またビルマの地域的特性で、乾季と雨季が明確であって、
>毎年6月ごろには敵味方とも戦闘中止になる状況で
世界の傑作機の一式戦でも同じような事が書かれてましたね
うろ覚えなんですが「雨期の間に十分な休養と補給がなされていた」ですとか
「地形や気候に熟知」的な事で常に互角に戦えたみたいな書き方だったと思います

>IP:123.217.*(ocn.ne.jp) No.1133145
別人と間違えて悪かったね

>彼への批判は彼が返答するのが普通であって取り巻きが代返する状況が異様なんだよ

おかしな批判を第三者が指摘することは異様でもなんでもない。
現に複数人が取り立てて長いレスではないと答えているしな

委細了解いたしました

>米国賛美と否定してるのはクソnttpcでしょ
してないよ
「米国の良い話はするが悪い話は決してしない」と言っただけ
「賛美」とは違うな
あとキミにクソ呼ばわりされる筋合いは無い

もし一式が採用されずに大東亜戦争に突入していたらと、
妄想をめぐらせているところです。

>もし一式が採用されずに大東亜戦争に突入していたらと、

採用していてもわずか40機程度で開戦時を迎えた史実を考えると
それほど大勢に影響がなかったのでは?

不採用が決まっていたらその分を補う代案(97戦の改良や陸軍の航空機工場で零戦を生産など)が開戦前に採用されていたには違いないだろうし

>mesh.ad.jp様
ボリュームのあるレスを投稿なさる場合は、できれば画像なしで投降して頂けると
文章が読みやすくなるので助かります。
画像があると、その分だけ文章の掲載スペースの幅が狭くなってしまい、
文章全体が読みにくくなってしまいますので。
ちなみに私はmesh.ad.jp様のレスは豊かな知識と情報が含まれているので、
大変勉強になって面白いと思いながら読ませて頂いております。

一式戦1型は、空中分解の罰があるんで、もしも自分がパイロットなら乗りたくない。

前に読んだ本だとモスキトーって呼ぶのが正しいって書いてあった

>画像があると、その分だけ文章の掲載スペースの幅が狭くなってしまい
個人的には画像があった方が良いけどね
珍しい写真もあるし、氏の文章も読みやすいように纏めてあるし

ところで、四式戦は「エンジンが定額通りだったら最強だった」って話をよく聞くけど、俺個人的には疑問なんだよね
四式戦の強みは運動性の高さにあるってのは良く言われる
けど、運動性の良い機体は一般的に翼面荷重が低い代りに
翼自体が抵抗物になって速度を出しづらいといわれる 
つまり、四式戦はムスタングとかフォッケとかメッサー
よりかは運動性に優れるけど速度では勝てず
零戦とか一式戦よりかは速度で勝るけど、運動性に勝てず
という「どっちつかず」の機体で終わってた可能性がある

四式戦は当時のベテランパイロットが残している言葉によると「なんでもできるが、なにもできない」みたいな評価をされてることが多いね。

ただ、当時あの性能でそれなりの数を揃え、また、未熟な搭乗者でも必要最低限な訓練でそれなりな戦力発揮が出来た事はやはり重要だったらしい。
他の機体で腕が未熟なら、もっと酷かったという事で、あの時期にはなんとしても敵機を圧倒できずとも食い下がれる性能の機体が欲しかったのは事実。
四式戦はなんとか最後の一年に間に合っているので、戦後の評価を抜きにしても、あの時期の日本を代表するに足る機体には数えていいと思う。

>>50機の我が飛行部隊を12倍にも見ていたわけになります」

これって連合軍側はラバウルや台湾でも日本の機体数を過剰に分析してるよね。
ビルマの戦記だと、既に出ているように敵状に対応して複数の飛行場に進出や移動をしてる描写が多いので、敵にしたらどこにでも迎撃が上がってくる感じで、機数が多く感じられたのだろう。
そして航続距離は大きな要素だったと思う。
モスキート追撃の事例の他にもビルマの桃太郎さんなんかも長時間追撃の末にブレニムやB24が速度落とした隙を突いて撃墜とかしてる。
これって、やられた方は最初の迎撃とは別の機体に襲われたと思うだろうから、そう報告すると、迎撃してきた機体数がまた増加することにもなる。
当時の米英戦闘機の航続時間で考えたらあり得ない距離の追撃だし、だからこそ油断して巡航速度まで落としたんだろうしね。

>零戦とか一式戦よりかは速度で勝るけど、運動性に勝てず
>という「どっちつかず」の機体で終わってた可能性がある
戦闘機の空戦の内容はWWIIの半ばには既に縦方向の機動が中心に変化しており、
翼面荷重が低くて水平旋回の得意な軽戦よりも、速度や上昇力に優れた重戦の方が
優勢に立てるようになった。
日本陸軍は一式戦のような軽戦では時代遅れになりつつあると痛感しながらも、
その一方では軽戦の運動性には未練を感じており、軽戦の運動性と重戦の速度や上昇力を
併せ持った「中戦」という独自のコンセプトを創り出した。
それに基いて開発されたのが三式戦や四式戦であり、中途半端といえば半端な性格であると
見なされるのかも知れない。
だが日本以外の国でも「中戦」のような性格を持った機体は幾らか存在している。
例えば米海軍のF6Fはパワー重視の大型戦闘機の割には旋回性能なども良好だったし、
ソ連のYak-3は速度性能と旋回性能が共に優れていた。

>そして航続距離は大きな要素だったと思う。
ディスカバリーか何か忘れたけど
当時の日米のパイロットがお年寄りになって
会合した時ですら米元パイロットのおじいちゃんは
零戦の航続距離を信じようとはしなかった・・・。

五式戦はどうでしょうか。登場が遅すぎた傑作といわれてますが。

>五式戦はどうでしょうか。登場が遅すぎた傑作といわれてますが。
彗星33型みたいにもう少し登場早く出てこれなかったんだろうか…

>だが日本以外の国でも「中戦」のような性格を持った機体は幾らか存在している。
>例えば米海軍のF6Fはパワー重視の大型戦闘機の割には旋回性能なども良好だったし
F6Fは対零戦というコンセプトがはっきりした機体だったから活躍できたと思う
一方の四式戦はご指摘の通り、良いとこ取りで悪く言えば中途半端でターゲットもコンセプトも不明瞭な機体だった
良く言えば野心的な設計だったんだろうけど、結果は
当の陸軍搭乗員から「四式戦よりキ100キボンヌ」とか、四式戦が苦戦する中、1式戦とか零戦は、機体の特性を知り尽くした搭乗員により最後まで善戦するとか、あんまりパッとしない結果だった

個人的な感想だけど、四式戦の顛末を鑑みると、モノつくりにおいてコンセプトをはっきり打ち出すことが、いかに大切な事かという事をしみじみと考えてしまう

四式戦の不評の大部分はエンジンだと思うよ
それに生産数が多い機体は標準的な機体の方が全体としては無難で
足りない部分は一芸に秀でた機体を作るというのが順当な方法だと思う

>個人的な感想だけど、四式戦の顛末を鑑みると、モノつくりにおいてコンセプトをはっきり打ち出すことが、いかに大切な事かという事をしみじみと考えてしまう
つまり九七戦最強ってことですね

>一方の四式戦はご指摘の通り、良いとこ取りで悪く言えば中途半端でターゲットもコンセプトも不明瞭な機体だった

これよく言われるけど、米軍のテストによる評価の方が信頼性高いと思うな。

高高度最高速と急降下速度を抜かせば、いかなる米最新鋭戦闘機に勝る性能をもつ、最良の日本軍戦闘機。

単に、運用がうまくいかなかっただけで、当時日本にできる精一杯の機体であったのが正解だろう。

>F6Fは対零戦というコンセプトがはっきりした機体だったから活躍できたと思う

グラマン「えっ」

>単に、運用がうまくいかなかっただけで、当時日本にできる精一杯の機体であったのが正解だろう
ケチョンケチョンにこき下ろしといてなんだけど、あの末期的状況下で一人三役というか八面六臂の活躍をした四式戦は
まさに日本陸軍の要望にマッチした最良の機体だったと思う
四式戦をテストした連合軍パイロットが「2000馬力級のいかなる戦闘機の中で一番操縦しやすい機体だった」という評価は飛行機として四式戦が優れていたという事実の証明に他ならないと思う
四式戦の運動性や防弾装備に命を救われた搭乗員も大勢いた
のも事実だし

自分で色々書いておいてなんだけど、ものの評価っていうものは難しいなと思うよ

何故か評判低い四式戦闘機ですけど
あのトーマス・マグガイアを落としたり(一式戦闘機の可能性もありますが)
中国戦線、フィリピンでの戦いは称賛に値する戦果だと思います

>これよく言われるけど、米軍のテストによる評価の方が信頼性高いと思うな。
戦後に米軍が誉エンジンに米国製のスパークプラグを付けて、
高オクタン・ガソリンを積んだ四式戦をテストしてみたら
700km/h近い速度を記録したと言うね。
戦時中でもそれぐらいの性能を発揮できていたら評価も違っただろうに。
またレイテ沖や台湾沖の航空戦では四式戦の稼働率があまりに低すぎて
飛行場のお飾り状態になっていたと聞く。
エンジンや燃料に泣かされた悲運の戦闘機だったね。

確か陸軍の戦闘機は胴体に爆弾が積めずに主翼に搭載していたような

>戦後に米軍が誉エンジンに米国製のスパークプラグを付けて、
>高オクタン・ガソリンを積んだ四式戦をテストしてみたら

だけでなくGEの薄型パッキンに全交換して接合部の面取りしなおしてるから、性能も上がってるよ

>>グラマン「えっ」

だよな。
F6FはF4Fに代わる本命次期艦載機だったF4U開発の保険。
実際の開発時期で言えば日米開戦前からで零戦への対抗策ではない。
で、F4Uの艦載機としては扱いづらい特性の為に空母への配備は先送りにされ、F6Fは見事にその保険の立場を全うして主力艦載機になった。
F6Fという保険が無ければ、F4Uの開発生産時期から見て、マリアナ沖海戦辺りではまだ艦載機としては大量配備に至れず、米空母機動部隊はF4Fで頑張らねばならない時期が半年以上伸びた筈。
零戦との遭遇及び機体入手によるデータを反映させたのは結局F8Fまで待たねばならなかった。
それでも、日本は零戦後継の烈風を結局完成できなかったことと比べるとF4Uでさえも時宜に適った成功作。
それに加えてF6Fという保険を同時進行で開発できる地力が当時の日米の国力差であり、技術力差だった。

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三式戦及び五式戦を装備して、主に本土防空戦で活躍した飛行244戦隊で
戦隊長を務めた小林照彦少佐さんが、部隊が5式戦に改変(1945年5月12日前後)後の6月3日に九州上空で米機動部隊からのF4U「コルセア」と空戦した際の記録を戦時日記に残されてるんですが、それによりますと「戦果。撃墜7-9機。自爆1機(山下軍曹)、未帰還2機(本多軍曹、藤井軍曹)(略)未帰還機の生還を希うや切なり。『コルセア』の性能は大して良好ならず。キ100(5式戦)を以てすれば、低空にありても絶対不敗、高位の場合には、絶対的に必勝なり。上昇性能、旋回性能ともに我がキ100は優りあり。(略)生田少尉敵機を胴体着陸せしめ、殊勲甲なり。」…と有りまして、なかなか5式戦強し!ってな印象ものなんですな

ところがこの後が

「予(小林戦隊長)は発動機故障となり、(鹿児島県)万世に不時着す。
(略)器材の不良なるは相変わらずなり。残念なる事なり。
日本戦斗機の性能悪きにあらず。器材が悪きなり。
材質そのもの及び工作技術が悪きなり。
若干時の戦斗にて直ちに故障続発するは、一に材質不良と、工作技術の
拙劣に依るものなり」

…と続くんですな
5式戦と言えば、3式戦の宿痾だった不調の液冷エンジンを信頼性の高い
空冷エンジンに換装する事で、機材の信頼性が高まっただけでなく
軽量化によって思わぬ高性能を得た傑作機、って評価が主だと思うんですが
この機体にしてなお「性能は良いけれど、故障が多い」と小林戦隊長に嘆かせ
ざるを得ない所があったみたいなんですね

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因みに当時の陸軍機の整備事情は、先に手記を引用させてもらいました上田大尉さんの回想に
よりますと、陸軍航空の各戦隊では、即時出動可能の飛行機を「甲」、戦隊内で修理整備すれば出動可能の機体を「乙」、野戦航空廠や移動修理班に修理を依頼する必要が有る機体を「丙」に分類して、毎日各戦隊長や上層部に戦隊の保有機の状況を報告していたそうなんですが(因みに籍はあるけれども修理不能な大破機が「丙」だとか)上田氏は「宵越しの乙は持つな」を合言葉に部下の督励に努めて、64戦隊の「隼」の可動率の向上にこ努めていたんだそうで上田氏によりますと「一番、隼で傷んだのは尾輪ですよ。普通のゴムですからね。速度出すと熱を持つでしょ、尾輪のゴムが外れるんです。それから点火栓(プラグ)。このふたつがね、いちばんの消耗品なんです。しまいの頃には電纜(電装コード)も品質が低下して傷みやすくなりましたけれどね」

「私の隊にいた栗原曹長っていうのはね、開戦以来のベテランでしたけど、兵舎に積み上げるぐらい
尾輪と点火栓持ってましたよ。『乙』っていうのは大概、この尾輪が外れるか、空戦中はエンジンのブースト
上げますから、点火栓が過熱して傷むとか、そんなことが大半でしたね」

…との事だそうでして、要は尾輪や点火栓、電纜といった予備パーツと言う「財産」を、どれだけ確保してるかが
そのまま戦隊の整備能力に直結してるんだそうなんですな

この点、ほぼ3年間、根拠地飛行場を持って隼を扱い続けた64戦隊は備蓄の点でも有利で
「点火栓と尾輪とをね、山ほど持ってる(上田氏)」わけなんですが、おかげで際立った稼働率を維持した64戦隊の
整備隊長上田氏に対して、1944年12月25日には所属の第5飛行師団長より
「作戦可動率抜群なり」との賞詞が授けられそうです

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一方、4式戦「疾風」での例になるんですが、当時「疾風」動力関係のトラブルとしてはメジャーだったのは
1)点火系統の不良→スパークプラグの寿命が短く(約10〜20時間)プラグの品質検査や補充が滞ると即故障の原因になったこと2)高圧電纜のパンク→ハ45の構造上、前後の高温のシリンダーの間を通る電纜が高温に晒されるものの絶縁ゴムの材質不良から問題が多発し、やはり頻繁な交換が必要だったこと3)過給機の切り替え時の振動発生→出力、回転数、混合気等の調節で解決出来るものの、操縦者の熟練を要する4)電気式プロペラガバナーの作動不良→電気接点の品質不良…等でして、やはり点火栓や電纜の交換パーツの潤沢な供給が諸問題の解決のカギだったそうなんですな

この点、例えば最初期に4式戦を配備された実戦部隊の一つである22戦隊の場合、
元陸軍航空隊審査部で、メーカー側にも顔の効く器材小隊長さんがおられまして、
各部品の生産会社とこまめに連絡を保って、
正規の補給ルートで難しい際には会社と直接交渉で在庫を確保するなど努力した為
70%程度の稼働率を常に維持していたそうです

ところが一方、22戦隊に2ヶ月遅れで4式戦を受領し始めた11戦隊では

・油温の上昇、点火系統の不良、原因不明の内部故障、工具の不足、油漏れ等の
故障対策に自信なし、酸素も不足し、これでは飛ばせるわけには行かない
・(44年)5月までに54機を受領したが、操縦のほうは未修者30数名、整備の方は
更に遅れ、更に基幹人員の補充交代もある

…と切実な陳情が出される始末で機材の整備状況は全く真逆、人員の訓練の遅れと整備の状況の悪化が
互いに影響しあってより深刻化する負のスパイラル状態に陥っていたんだとか

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飛行第1・11・22戦隊から構成される第12飛行団団長の川原中佐さんは、
当然、隷下の部隊でこういう格差が生じてる事態を憂慮しまして22戦隊の整備隊長、中村大尉さんを呼び出して「こちらは部品補給が上手く行っているようだが、他の部隊が困っているようだから一つ融通してくれんか」…と直に頼んだりもしてるんですが、中村大尉としても部下が四苦八苦して掻き集めてる予備部品を他所に融通すればそのまま自隊の稼働率に跳ね返ってくるのは十分承知ですから「他の部隊に対しても極力努力するよう督励していただきたい」と断るしかなかったそうで腕前、若しくは現場の機微を熟知した整備のオヤブンとその有能な部下さんが、あらゆる手練手管やコネを尽くして必要なものを掻き集める、ってスタイルは、上手く嵌ればそれこそビルマの64戦隊みたいに見事な成果を挙げられるんですけれど逆にそういう「名人」の有無ではっきり明暗が分かれるモノでもあったみたいですねえ

244戦隊は、戦闘機乗り生え抜き組と、軽爆転科組(小林戦隊長も転科組)との間で、機付や整備含めて溝があったと聞く。
そういったのも5式戦の稼働率の話につながるのかも。

日本は耐油合成ゴムを実用化できず南方で産出する天然ゴムに頼っていたから
戦中を通じて油のシーリングに苦労していました
部分的に紙を使っていたそうでしたが戦後も長く使われていた技術だそうです
そうした部分あっても栄エンジンなどは稼働率が高かったので設計時に十分な
対策が織り込まれていれば必ずしもマイナス要素ではなかったと思います
ただし戦中は設計にかける時間的余裕はなく奇跡か偶然でもなければ誉の成功は
望めなかったでしょうね

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この本を読もう。
ものすごく落ち込むね。

その本欲しいんだけど高くって・・

>個人的な感想だけど、四式戦の顛末を鑑みると、モノつくりにおいてコンセプトをはっきり打ち出すことが、いかに大切な事かという事をしみじみと考えてしまう
ここら辺勘違いしている人が居るけど四式戦の基本コンセプトはあくまで「軽戦」だぞ
旋回性能は隼と同等だけど2000馬力で隼と同じような操縦されると
翼面荷重で翼が折れるから操縦系を重くしたり
急降下で突っ込みすぎないようある程度の速度が出ると機首が上がるようにと
設計者の配慮が裏目に出た形になったのが四式戦なんだ
実際、操縦系の重さなんか気にならない人達からは操作系良好の評価出てるしね

>その本欲しいんだけど高くって・・
アマゾンで1296円なんだけど、高い?

>3)過給機の切り替え時の振動発生
世傑の「彩雲」では、元パイロットの方が、高度が上がって二速に切り替えるときに慎重にやらないとエンストするとかいうことを書いてたな。