親戚に、戦争中の空 - 軍裏@ふたば保管庫

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 親戚に、戦争中の空中勤務者や搭乗員がいた方って、この板を見てる人にどのくらいいらっしゃるんでしょうか?削除された記事が1件あります.見る

祖父が搭乗員だったけど戦中の事は殆ど語らずに亡くなったわ

 自分の叔父は戦没したのでいろいろ調べた結果、陸軍飛行31戦隊にいたことが分かりました。

陸軍参謀だった、という祖父がいたが
当時はまるで興味がなかったのでなにも聞かなかったな
靖国神社におまいりに連れて行ってもらった位

親父の代わりに本家の法事に行ったら、飛行帽被った遺影が
あったんで、ちょっと聞いてみたら村(今は市だけど)で一人
だけの陸軍の搭乗員だったと教えられた
隼に乗っていて…というとこまでは伝わっているんだけど、
具体的にどこで何をしてとかいうことは完全に忘れられてた

じいちゃんが零戦乗りだった。
仏間に零戦乗ってる写真が飾ってあった。

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昭和30年代に亡くなった大叔父の一人が
零観に乗っていた模様但し搭乗員なのか観測員だったのかは不明

じーさまがシンガポールで隊を率いていた佐官だった
英軍の捕虜になった時に英兵から酒貰ったりしたんで
「今に友軍が攻勢をかけるだろうが、お前達が良く扱ってもらえるように」と
自分の名前で英兵に礼状を書いて渡した。と話していた

母方の叔父が予科練行ったけど、結局戦争末期でグライダー訓練まで、あとは土木作業ばっかりの「どかれん」だったって自嘲ぎみに言っていた。

海軍軍令部の宴会写真出てきたのにはビビったわ

伯父が整備班だった。加藤隼戦闘隊 佐々木組
伯父の家に割れたアクリルガラスがある。
パイナプッルみたいな匂いがする。

航空関係ではないんですけど
爺様が大和の最後を見ているはずなんだけど
生前は軍人だったことすらチラッとも話さなかった
そんなもんなんですかね

一番上の伯父が特攻隊で逝ってる
(親父は十何人兄弟の末っ子なので戦争関係ないが)

死んだ祖父は、飛行士ではなかったが樺太の飛行場でビーコンを出す仕事をやっていたと聞いた
電信畑の人だったようで、戦後は電電公社に務めて定年後には勲四等だか貰っていたから、
孫の自分が何も聞かされてないだけでいろいろ功のある人だったのかもしれない
よくあるパターンとして、生前その手の話はほとんどしなかった

あと、飛行機とは関係ないけど、祖父の形見の中には祖父の兄の軍人手帳があった
兵庫とか姫路とか書いてあったから、第10師団隷下のいずれかの部隊にいたようだ
祖父は遺族年金を受けていたようなので、恐らく戦死したんだろうな
手帳は多分、祖母がまだ持ってる

叔父が陸軍の戦闘機パイロット(特別操縦見習士官)でした
伝え聞いた話を総合すると、本土で訓練を受けたあとフィリピンに移動
フィリピンから間一髪で脱出して来て終戦の年に事故で殉職
一式戦の前で撮った写真が残っていますが、事故時に乗っていたのは
複座の練習機か偵察機だと思います

遺品の中には例によって風防ガラスをあぶって曲げて作った小箱が…

じーさまの実家の兄弟に隼に乗ってたのが居たそうだ
敵襲で搭乗 もう無理だって言うのに発進
上昇中に攻撃され落とされて死んだそうだ

ばあちゃんの弟が人間魚雷に志願して死んだっていうのは子供の時に聞かされたけど詳細不明

 みなさん結構ご親族に従軍経験者がいらっしゃることが分かりました。ありがとうございます。
 私の叔父は2人、従軍経験者で、うち1人は、今も存命ですが、軍隊や戦争のことは、やはり全く語りません。
 当時の写真だけが残っています。

スレ頭で搭乗員、空中勤務者と限定してたから書かなかった人も多いんじゃない?
ウチは母方の祖父が海軍(47年香港島から復員)、親戚は近衛兵や傷痍軍人も居るし硫黄島の増援途上でボカチン戦死もアリといった具合

爺さんが「最後の予科練」だったとよく父親が言う。
それ以上の詳しい話は聞けていない・・・。
赤トンボの話はよく聞かされたらしい。

10数年前になくなった大叔父がサイパン戦の生き残り。
高校生の時バイク事故で入院していたとき自分も肝臓をやっつけて入院しているのわざわざ看護師の制止を振り切って見舞いに来て
「いいか!なんでも悪いように考えちゃならんぞ。何事も良いように良いように考えてるんだぞ。」
と来るたびに言い残した。
死線をくぐり抜けた人間の重い言葉なんだろうな

祖父が南方戦線に行って
終戦後も抵抗を続けていたそうだ

物心付いた時には他界していてよくわからんが
長靴みたいな形をした島?半島?に居たそうな

祖父が特攻隊だったと聞いてる
8月15日に出撃する筈だったのが終戦で中止
生き残ったことを気にしてたのか、家族にも殆ど当時のことは話さずに亡くなった

他界した父が軍刀を持ち飛行服で正装した写真がある
予科練から榛名勤務を経て特攻要員として97艦攻観測員の訓練中に終戦と幼心に聞いた

存命中の社長曰わく「兵隊にとられて防空壕掘ってたら戦争終わってたわ」
劇的な話ばかりじゃないってことで

派手でも地味でも生きてりゃいいのよ
爺さんの弟は空母に乗り組んでて戦死じゃなく病死した

>存命中の社長曰わく「兵隊にとられて防空壕掘ってたら戦争終わってたわ」
>劇的な話ばかりじゃないってことで
青島幸雄の「人間万事塞翁が丙午」でも同じこと書いてたな
もっとも2回目の招集で「こんな老兵使うんじゃ負けだ」みたいな事も書いてた

母方の大叔父(故人)が予科練出身の艦爆乗(偵察)だったらしい。親類に聞いた話では終戦の日に大分基地にいて宇垣中将の最後の特攻出撃を見送ったらしい。大叔父自身は終戦の日の数日後に特攻出撃の予定だったとか。

父方の爺さんは特務少佐で内地で終戦。
母方の爺さんは輜重兵で大陸から南方へ転戦の後に復員。
大叔父さんは日露戦争で戦死らしい。

どれも詳しい話を聞く前に亡くなられてしまった…。

子供の頃、父方の祖父が満州に派遣されていた時の写真を
観た事があります。
母方の祖父はフィリピンで看護兵として従軍し復員、
生前には何も語ってくれませんでした。
又、母方の親戚には海軍で三人が戦没、一人は駆逐艦で、
もう一人は回天らしくあとの一人は不明です。

婆さんに戦時下のハナシ聞いたら
黙秘権行使された
いろいろ話したくなかったらしい

うちはみんな歩兵だったみたい。母方が上から伍長、軍曹、一等兵
父方も押し入れから大陸の写真と「ほうへいちゅうたいしきしょ」って看板の前での記念写真があったな
みんな機銃掃射やら爆撃受けてるから飛行機嫌いみたい
一人だけ少尉で陸軍航空隊の機上無線機やってた人がいたみたいだけど少尉が機上無線てあるのかな?

祖父の兄は職業軍人でマレーで戦死。戦車隊長だった。
祖父自身は師範学校卒で徴兵免除(戦争後期はこれはなくなった)。しかし成績優秀なので海軍に研修に行ってた。
リュウジョウにのってた、との話だが、…空母?それ以外にあるだろうか?
>いろいろ話したくなかったらしい
 祖母の家は名家で、役場で兵事担当をやっていた。
徴兵検査の名簿(実質徴兵名簿)を作る係。
村の人には相当恨まれたようだ。村人の手前、身内から応召者を出さざるを得なくなって、親族の者に赤紙を。
この関係の話は今でも親戚うちでは禁忌。

占領期に酷い教育をされたせいで子供達は復員した親の話をまともに聞かなくなった。世代間の断絶が起きた。だから何も語られなくなった。悲しすぎる。

191775 B
>No.338493
>リュウジョウにのってた、との話だが、…空母?龍驤コレ位しか思い浮かばない

>占領期に酷い教育をされたせいで子供達は復員した親の話をまともに聞かなくなった。

教育のせいでもないと思うな。
進駐軍を見れば子供がアメリカに憧れ持っても仕方ない。
で、教科書に墨塗って、今までの教えは間違ってました、なんてされてみろ。
そりゃ戦争に行った人の話なんか只の負け惜しみか言い訳か自己弁護にしか聞こえんよ。
占領期の教育が悪いんでなく、戦中の教育が悪かったんだよ。

俺の所のお客さんに何人かいた、一人は元紫電乗りで後に
月光武隊に配属、最後は高知の特攻隊で終戦 と言っていた
特攻隊と言っても、肝心の飛行機は無かったそうだがw
終戦時の飛行時間は3000時間だったと言っていた
もう一人は予科練で訓練中に終戦になったそうだ、訓練は台湾で
していて、行きの輸送船では寝る場所がなくて荷物の魚雷の
上で寝たそうだが、本当かねw

戦艦乗務員(空母も)の話は次の機会に

40855 B
>リュウジョウにのってた、との話だが、…空母?
軽空母だね

>軽空母だね
龍驤は正規空母
大日本帝国海軍に軽空母というカテゴリーは存在しない

祖父ゼロ戦
父c130
自分B737
ボーイングなんて乗りおってっていじめられます

父方の曽祖父は飛行機の機関士。
戦争中は川西飛行機で領収前運転をしてた。
母方の曽祖父は騎兵大尉だったけど軍縮でクビ。
父方の祖父は新米造船官で戦後日立桜島で空母を解体した。
母方の祖父は師範学校予科2年。

>祖母の家は名家で、役場で兵事担当をやっていた。
徴兵検査の名簿(実質徴兵名簿)を作る係

それは勘違いのはず

>龍驤
プラモ作ってるんだが、乾舷の高さが駆逐艦と変わらなくて吹いた
転舵するとエレベータの底から水平線が見えたそうだけど
よく引っくり返らずに済んだもんだ

>よく引っくり返らずに済んだもんだ
龍驤はでかいジャイロ姿勢制御機が入ってたはず
作ったほうも「ヤバい」のはわかってたって事だね

宇佐空で整備兵だった方と話したことがある
多分宇垣特攻を見送ったはず

さすがに危ないからってバルジ追加したけど
バルジ内の燃料を使うとかえって危ないから使えなかったとか

>>バルジ内の燃料を使うとかえって危ないから使えなかったとか
 バルジ内の燃料タンクは使った分の海水を入れて重心の移動を抑えるはずなんだけど
 もともと不安定でなおかつ後付だからそういうのは無理だったんだろうか?

>バルジ内の燃料を使うとかえって危ないから使えなかったとか
>バルジ内の燃料タンクは使った分の海水を入れて重心の移動を抑えるはずなんだけど
危なくて使えなかったから海水注入装置を後付けしたんやで

書き込みをした人によって削除されました

>一人だけ少尉で陸軍航空隊の機上無線機やってた人がいたみたいだけど少尉が機上無線てあるのかな?

航空士官学校卒業生が全て操縦士になるわけではなかったそうです。私の叔父は航士54期でしたが、54期卒業生395名のうち、操縦は298名、他は通信、偵察などだったそうです。

>自分B737
現役旅客機パイロットですか、凄いですね。

うちの祖父は海軍で爆撃手/雷撃手だった。
基地航空隊を転戦して空母には乗っていないっぽい。
20年4月に占守島から千歳に撤退して、九死に一生を得ている。
その後占守島では陸軍が・・・。

>龍驤はでかいジャイロ姿勢制御機が入ってたはず
>作ったほうも「ヤバい」のはわかってたって事だね
鳳翔もジャイロスタビライザー載ってるから
どちらかというと黎明期の空母運用のための試行錯誤によるものかと

>うちの祖父は海軍で爆撃手/雷撃手だった
身内に口挟んで申し訳ないが、海軍に爆撃/雷撃手というのは(厳密には)存在しないので、占守島という事も勘案すると爆撃、雷撃専修(マーク持ち)の艦攻乗り偵察員だったという事かな

ご祖父さんが島に残っていれば、史実通り九七艦攻でソ連軍の上陸用舟艇を沈めまくって奮戦しただろうね

雷撃って操縦員が照準と発射するんじゃないの?
水平爆撃は偵察員がやるけど。

>雷撃って操縦員が照準と発射するんじゃないの?

じーさまの手記には
・魚雷の専門教育を受けた
・パイロットではない
と書かれていたのです。
漫画ですが、滝沢聖峰先生の「空母艦攻隊」でも、操縦手、雷撃手、無線手という役割分担だったので。

祖父が隼・飛燕・疾風に乗ってた
酒が入って機嫌のいい時だけ語ってくれたが
ストレートは遅くても加速力と上昇力が良い隼が
戦闘機としては理想的だった
って語ってたのが印象的

>雷撃って操縦員が照準と発射するんじゃないの?
照準はその通りだけど、投下は(爆弾架と同じく)偵察員席の投下把柄でやるんじゃなかった?
一応そこまで考えて偵察員だろうなと書きました
魚雷のみ操縦席に投下把柄あったんだっけ?

艦攻の機体に詳しい人フォローよろしく

母方の曽祖父が戦艦伊勢に乗っていたと聞いた
ただいつの時期に乗っていたのか等詳しいことはわからず
「泳いで陸地までたどり着いた」なんてことも聞いたが最期の大破着底時の話なのかも分からない

祖父が陸軍の戦闘機パイロットだった。
出撃が3日後に控えた日、突如全部隊出撃中止が言い渡された。

http://senri.warbirds.jp/23ura/43/43-2.html
元艦攻乗りの人によると。
>魚雷は主操縦員が照準して発射します。
だそうな。

>>魚雷は主操縦員が照準して発射します。
>だそうな。
発射も操縦員だったんですね
間違って失礼しました

蒼空さんのHPは全部読んでいたと思っていたのに・・・

祖父が零戦乗りだった
龍驤にも乗ってたらしいのでひょっとしたらNo.338493さんのおじいさんと会ってたかも

大叔父が百式司偵の無線手だったという話を祖母から聞いた
エンジン火災で大火傷してその後はずーっと地上勤務で戦争終わった後は警察の無線指令をやってたとか

本家の爺さんが整備士でピカピカにワックスかけたら大目玉食らったそうだ

>ストレートは遅くても加速力と上昇力が良い隼が戦闘機としては理想的だった
これは巴戦主体で戦う方のご意見なのでしょうかね?
一撃離脱型の場合は優先順位が最高速度なのでしょうか?
どなたか御教授下さい。

>本家の爺さんが整備士でピカピカにワックスかけたら大目玉食らったそうだ

艶があると反射して目立つとか?
だとしたら基本的に艶消し塗装だったんだろうか

>これは巴戦主体で戦う方のご意見なのでしょうかね?
>一撃離脱型の場合は優先順位が最高速度なのでしょうか?
>どなたか御教授下さい。
フライトシミュレーターとかやってるとスロットルと操縦桿の反応がいい機体の方が扱いやすいからそういう意味合いなんじゃない?

しかしそれなりに身近にいるんだな空中勤務者
うちの親族は警備兵と大陸で徴兵終わったから悲惨話も活躍も聞いてないわ

>339545
隼乗ってた人の回想で
「上昇力の良い機体は強い。高度は速度に変える事もできる」
って言ってたな。
最高速度ってのはエンジン全開ににした時のスピードで、降下かければ
もっと速い速度を出す事は可能だから。

 私の叔父は空中勤務者でしたが、華々しい活躍はなかったようです。戦争前半(昭和17年6月まで)は、ビルマ戦線で97軽爆を操縦し、満州勤務後、19年に戦闘機隊に改編され、夏、隼2型に乗ってフィリピンに転進しましたが、9月にグラマンと戦い散華しました(調べたらどうもマッキャンベルの部隊と交戦したらしい)。もうじき没後70年です。

>最高速度ってのはエンジン全開ににした時のスピードで、降下かければ
>もっと速い速度を出す事は可能だから。
でもその為に位置的優位を手放しちゃ本末転倒な気が

そこはあれだ。海面スレスレまで一気に急降下して、ヒラリ反転上昇で後ろを取るのが
得意な人いたよね。
二対一だと使いにくくて、中期以降の米軍機は基本二機一組なのが問題だが。