東方村渡部邸(国指定 - 二次元ネタ@ふたば保管庫

二次元ネタ@ふたば保管庫 [戻る]



27354 B


東方村渡部邸(国指定重要文化財)
渡部家は戦国時代の河野氏が支配していた頃から現在の東温市(旧川内町南方)で代々庄屋を務めていた。
江戸時代末期、松山市東方町(旧東方村)で村経営の建て直しのため松山藩主の君命により、南方渡部家の
三男だった渡部操長綱(みさおながつな)が入り庄屋として天保十五年(1844)、この地に分家した。支配した
東方村の米の収穫は江戸時代後半大体1.110石あまり。明治以降7か村が統合されて荏原村となるが、一番
大きな村であり、2番目は恵原町村の720石。
その庄屋が慶応二年(1866)に築いたのがこの重要文化財渡部家である。

敷地は約1,000坪。建物は約200坪。この家を建てるにあたり山口県大島から26名の大工を呼び、完工に6年を
費やしているらしい。使われている松や樫の木は140年から150年ものだそうである。

12531 B
屋は武士階級に準ずるが、あくまでも農民ということを強調するため瓦屋根の上に茅葺を設けた。これを「越屋根」(こしやね)という。
二階の小窓は種子島銃用の狭間がある。左端は郡奉行のように身分の高い者のみの通行が許された門があり、「お成り門」という。http://kutani.web.fc2.com/shoya-house.files/shoya-house.htm

61764 B
初期の新選組は資金調達もままならず、
多摩の百姓あがりで、何の後ろ盾も持たなかった近藤や土方だけではあそこまで大きくならなかったはずで、その意味でもれっきとした武家出身の芹沢鴨という男は、必要不可欠な存在だった。「三国志」においても、董卓がいなければ三国時代は始まらなかったように、芹沢なくして新選組も始まらなかった。魅力ある悪役といえる。

63010 B
塀越しに見ると、広い庭の向こうに立派な屋敷があった。
芹沢は、かなり良い家柄の出であったのだなあ、と実感させられる。ちなみに東京の日野には土方歳三の生家や、井上源三郎の生家があるが、いずれも今は子孫がお住まいのため、近代的な普通の民家に建て替えられ、当時の面影はない。この芹沢鴨の生家も、当時の建物でこそないが、それらと比較すると、ずいぶんと江戸時代の面影を色濃く感じられる貴重な史跡のひとつということができよう。

53945 B
看板の裏には自動販売機が並んでおり、昔懐かしい、
お湯が出るタイプのカップヌードルの自販機も置いてあった。残念ながら稼動はしていない模様。稼働していても、この場で食したかどうかは分からないが・・・(笑)。http://blog.livedoor.jp/tetsubo8/archives/65758306.html

74773 B
土方が住んでいた旧家は、長年の風雪によって老朽化し、平成2年に建替えられ
現在の土方邸は、柱などごく一部分を残して、ご覧のように奇麗な民家となっている。この邸内の一室を土方の遺品や書状などを展示する資料館として、毎月第1・第3日曜に公開しているため、月に2回、日野の街には、それを目当てに、多くの新選組ファンが訪れる。土方歳三は妻子を持たなかったために直系の子孫はいないが、歳三の兄・喜六の血脈が続いており、彼から数えて5代目にあたる土方祐さんがいらっしゃったのだが、この資料館の公開直前の平成4年に逝去され、その妻・土方陽子さんが館長をつとめておられる。http://blog.livedoor.jp/tetsubo8/archives/65690141.html

56865 B
http://blog.livedoor.jp/tetsubo8/archives/65689763.html


そして菩提寺では、
今もお殿様をお守りするように、
周りに従う家臣達のお墓に、静かな感動を覚えました。

そしてよくよく見ると、
芹澤村から共に京に上り、新選組へと加わった
平間重助のお墓もあるではありませんか。

今は”主従の関係”と言ってもピンとこないですが、
当時はこれを”忠”と呼び、何より一番大切にしていたとか。
主従関係が無くなっては、世の規律が乱れる、ということでしょうか。
平間重助、素晴らしい方だと思います。
http://ameblo.jp/shigehisanaoko/entry-11838966461.html

119871 B
明治中期、東京の街中に作られた典型的な中流住宅である。実業家中島氏が子息のために新築した建物であったが、子息は住むことなく転勤したため、貸家となり、明治23年(1890)陸軍軍医であった森鴎外が住むこととなった。25年(1892)鴎外が観潮楼へ移ると、歴史学者斎藤阿具が購入、明治35年斎藤が仙台、海外と転勤するに及び、36年(1903)、英国から帰朝した夏目漱石が借家することとなった。
鴎外、漱石という二大文豪が相次いで住まった家として有名であるが、建築的な価値も高い。間取りは伝統的な「田の字型平面」を基本にして幾つかの工夫が加えられている。

間取りは伝統的な「田の字型平面」を基本にして幾つかの工夫が加えられている。玄関と勝手口が建物東妻に並び、玄関の左手に応接兼書斎が張り出されて、奥の座敷へ立ち入ることなく、客扱いが可能である。さらに、勝手口を入った台所の奥から短い中廊下が西へ伸びて、女中部屋が座敷から切り離されている。家族が使う座敷の南表に縁側を通し、便所は縁側西端と勝手口北の2ヶ所、風呂は内風呂である。外装は、寄棟桟瓦葺、押縁下見板張である。玄関の起(むくり)庇がおっとりとして風情がある。(西尾雅敏)http://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/yukei/kenzoubutu/kunitouroku/1088.html

9966 B
前田 卓(つな)
 「那美さん」のモデルとなった案山子の次女。「草枕」では「キじるし」などと周りのうわさを表現されていますが、父案山子の影響からか文武に優れ、豪胆な性格で思想等を自由に表現するようなところが漱石を魅了したのかもしれません。父亡き後、妹槌に請われて上京。「民報社」の台所を預かり、在籍の中国留学生から慕われていました。黄興の1周期に中国に渡った卓は「私の身体は日本より支那の方が適している」と言ったそうです。  上京後10年ほど後、末弟利鎌をつれて漱石に再会。一家のできごと、中国革命との関わりなどを知った漱石が、件の「草枕も書き直さねば‥」を語ったものです。  民報社解散後は中国青年に変わり東京市養育院板橋分院に勤め、孤児に慕われていました。昭和13年、71歳で亡くなり、生前自ら建立、養子利鎌を葬った埼玉県野火止めの名刹平林寺の墓に永眠しています。 http://www.pluto.dti.ne.jp/~jeep/m-family.html