東方村渡部邸(国指定 - 二次元ネタ@ふたば保管庫

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東方村渡部邸(国指定重要文化財)
渡部家は戦国時代の河野氏が支配していた頃から現在の東温市(旧川内町南方)で代々庄屋を務めていた。
江戸時代末期、松山市東方町(旧東方村)で村経営の建て直しのため松山藩主の君命により、南方渡部家の
三男だった渡部操長綱(みさおながつな)が入り庄屋として天保十五年(1844)、この地に分家した。支配した
東方村の米の収穫は江戸時代後半大体1.110石あまり。明治以降7か村が統合されて荏原村となるが、一番
大きな村であり、2番目は恵原町村の720石。
その庄屋が慶応二年(1866)に築いたのがこの重要文化財渡部家である。

敷地は約1,000坪。建物は約200坪。この家を建てるにあたり山口県大島から26名の大工を呼び、完工に6年を
費やしているらしい。使われている松や樫の木は140年から150年ものだそうである。

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屋は武士階級に準ずるが、あくまでも農民ということを強調するため瓦屋根の上に茅葺を設けた。これを「越屋根」(こしやね)という。
二階の小窓は種子島銃用の狭間がある。左端は郡奉行のように身分の高い者のみの通行が許された門があり、「お成り門」という。http://kutani.web.fc2.com/shoya-house.files/shoya-house.htm

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初期の新選組は資金調達もままならず、
多摩の百姓あがりで、何の後ろ盾も持たなかった近藤や土方だけではあそこまで大きくならなかったはずで、その意味でもれっきとした武家出身の芹沢鴨という男は、必要不可欠な存在だった。「三国志」においても、董卓がいなければ三国時代は始まらなかったように、芹沢なくして新選組も始まらなかった。魅力ある悪役といえる。

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塀越しに見ると、広い庭の向こうに立派な屋敷があった。
芹沢は、かなり良い家柄の出であったのだなあ、と実感させられる。ちなみに東京の日野には土方歳三の生家や、井上源三郎の生家があるが、いずれも今は子孫がお住まいのため、近代的な普通の民家に建て替えられ、当時の面影はない。この芹沢鴨の生家も、当時の建物でこそないが、それらと比較すると、ずいぶんと江戸時代の面影を色濃く感じられる貴重な史跡のひとつということができよう。

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看板の裏には自動販売機が並んでおり、昔懐かしい、
お湯が出るタイプのカップヌードルの自販機も置いてあった。残念ながら稼動はしていない模様。稼働していても、この場で食したかどうかは分からないが・・・(笑)。http://blog.livedoor.jp/tetsubo8/archives/65758306.html

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土方が住んでいた旧家は、長年の風雪によって老朽化し、平成2年に建替えられ
現在の土方邸は、柱などごく一部分を残して、ご覧のように奇麗な民家となっている。この邸内の一室を土方の遺品や書状などを展示する資料館として、毎月第1・第3日曜に公開しているため、月に2回、日野の街には、それを目当てに、多くの新選組ファンが訪れる。土方歳三は妻子を持たなかったために直系の子孫はいないが、歳三の兄・喜六の血脈が続いており、彼から数えて5代目にあたる土方祐さんがいらっしゃったのだが、この資料館の公開直前の平成4年に逝去され、その妻・土方陽子さんが館長をつとめておられる。http://blog.livedoor.jp/tetsubo8/archives/65690141.html

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http://blog.livedoor.jp/tetsubo8/archives/65689763.html


そして菩提寺では、
今もお殿様をお守りするように、
周りに従う家臣達のお墓に、静かな感動を覚えました。

そしてよくよく見ると、
芹澤村から共に京に上り、新選組へと加わった
平間重助のお墓もあるではありませんか。

今は”主従の関係”と言ってもピンとこないですが、
当時はこれを”忠”と呼び、何より一番大切にしていたとか。
主従関係が無くなっては、世の規律が乱れる、ということでしょうか。
平間重助、素晴らしい方だと思います。
http://ameblo.jp/shigehisanaoko/entry-11838966461.html